日曜メッセージ:「互いに足を洗い合う」ヨハネ13:1-17
ヨハネ13:1-17 互いに足を洗い合う
ヨハネ13:1-17において、イエスはご自身をへりくだらせ、弟子たちの足を洗われました。これによって、イエスは弟子たちへの深い愛を示し、仕える心を持ったリーダーシップの模範を示されました。イエスは、ご自身の御国における真の偉大さは、謙遜と無私の奉仕を通して示されることを教えられました。そして、ご自身が仕えたように、弟子たちにも互いに仕え合うようにと命じられました。
神の御国における真の偉大さは、仕える心にあります。イエスは、ご自身の模範に倣い、謙遜に人々に仕えるようにと弟子たちを招いておられます。
例え: サッカーのキャプテン
1. イエスは弟子たちの弱さにもかかわらず愛を示される (1-3節)
「イエスは、ご自分の時が来たことを知っておられた」
ヨハネの福音書の中で、イエスは何度もご自身の「時」について言及されています。この「時」とは、イエスが苦しみを受け、死に、栄光を受ける時を指しています(ヨハネ2:4; 7:30; 12:23)。
これまでの場面では、イエスの「時はまだ来ていない」と記されていました(ヨハネ7:6, 30)。しかし、今やその時が到来し、神の小羊としてご自身を捧げるという最終的な使命を果たす時となりました。
「自分のものを愛し…最後まで彼らを愛された」
「自分のもの」とは、御父がイエスに与えた弟子たちを指しています。イエスは地上でのご生涯を通して彼らを召し、導き、愛し続けられました。
「最後まで愛された」(ギリシャ語: eis telos)とは、完全に、徹底的に、そして最後の瞬間まで愛されたことを意味します。
イエスの愛は揺るがず、やがて弟子たちが彼を見捨てることになっても、変わることはありませんでした。
イエスは弟子たちの足を洗われました。それは、彼らに欠点があっても、誤解があっても、また、そのうちの一人であるユダがすぐにイエスを裏切ることを知っていたとしてもです。
イエスはユダが裏切ろうとしていることをご存じでした。それでも、イエスはユダの足を洗われました。イエスは、裏切る者に対してさえも、恵みと謙遜をもって接されたのです。
ヨハネの福音書13:1-17は、イエスがユダの足を洗ったことを明確には述べていません。しかし、文脈を考えると、イエスはすべての弟子の足を洗われたと強く推測されます。
イエスの愛は、たとえ弟子たちがこの後、彼を見捨てることになったとしても、変わることはありませんでした。このことは、私たちに大きな挑戦を与えます。
私たちは、自分を傷つけた人や、愛しにくいと感じる人に対して、どのように接しているでしょうか?私たちは、イエスが示されたように、恵みを持って接することができるでしょうか?
御父は、すべてのものをイエスの手に委ねられた。これは、イエスがあらゆる権威を持っておられたことを意味します。
しかし、イエスはその権威を誇示するのではなく、弟子たちの足を洗うためにひざまずかれました。これは、驚くべき謙遜の行為でした。
例えば、大企業のCEOが、自ら会社のトイレ掃除をする姿を想像してみてください。イエスは、神としての権威を持っておられながら、しもべの役割を取られたのです。
2. イエスはしもべの姿を取られる(4-11節)
この場面でイエスは、驚くべき、そして深い象徴的な行為をされます。
最後の晩餐の席で、弟子たちが食卓についていたとき、足を洗うしもべはそこにいませんでした。当時の習慣では、旅の途中で足が汚れるため、食事の前に足を洗うことが一般的でした。
古代の世界では、足を洗うことは最も身分の低いしもべの仕事でした。人々は砂埃の多い道を履物(サンダル)で歩くため、足は非常に汚れていました。
しかし、イエスは師であり主であるにもかかわらず、このしもべの仕事を自ら進んでされました。この行為は、当時の社会的なヒエラルキーを覆すものであり、弟子たちにとっては大変衝撃的なものでした。
イエスは上着を脱ぎ、腰にタオルを巻き、しもべのような姿になられました。これは、イエスが人々に仕えることに対し、完全にへりくだるご意思を示していました。
私たちは、どれほど他者のために謙遜に仕えることができるでしょうか?
謙遜になりたくない理由。。。
それがたとえ自分の快適な領域を超え、社会の期待とは異なることであったとしても、イエスは私たちにへりくだりと奉仕の姿勢を示すように挑戦されています。
ペテロの抵抗とイエスの応答(6-8節)
イエスがペテロのところに来ると、ペテロは驚き、足を洗うことを拒みます。
彼にとって、師であり主であるイエスが自分に仕えるなど、考えられないことでした。ペテロの反応は、私たちがよく抱く誤解を浮き彫りにしています。すなわち、「権威や偉大さは、謙遜や奉仕とは両立しない」という考え方です。しかし、イエスはまさにその反対のことを示されました。
イエスが弟子たちの足を洗われた行為は、霊的な清めの象徴でした。これは、イエスに従う者すべてに必要な「霊的な清め」を表しています。
イエスは「もしわたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」と言われました。これは、イエスによる清めが、イエスのもとに属する者にとって不可欠であることを強調しています。
ペテロはその意味を理解すると、今度は「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と極端な反応をします。ペテロの姿は、時に私たちの信仰の姿勢を反映しているかもしれません。
イエスの「清め」に関する深い教え(10-11節)
イエスは、「すでに体が清い者」と「足を洗う必要がある者」との違いを説明されました。弟子たちはすでにイエスを信じており、その信仰によって「清い」とされていました。しかし、日々の歩みの中で汚れがつくように、霊的にも継続的な清めが必要であることを示されました。
この教えは、信者がキリストにある信仰によって義とされる(清められる)ものの、日々の歩みの中で罪の影響を受けるため、継続的な悔い改めと告白が必要であることを示唆しています。私たちはキリストにあって救われていますが、神との交わりを保つためには、日々の霊的な清めが必要なのです。
イエスはまた、「あなたがたの中には清くない者がいる」と語られました。これは、イエスを裏切ろうとしていたユダを指しています。それでも、イエスはユダの足を洗われました。このことは、イエスの恵みと謙遜がどれほど深いものであるかを示しています。イエスは、自分を裏切ろうとしている者に対しても、奉仕の姿勢をもって接されました。
3. 互いに足を洗い合いなさい(12-17節)
イエスは弟子たちの足を洗われた後、単にその謙遜な行為に驚かせるだけでは終わりませんでした。イエスは弟子たちに、ご自身の模範に従うようにと明確に求められました。
イエスのこのしもべの姿勢は、単なる象徴的な行為ではなく、すべての弟子たちが生き方として実践すべきモデルなのです。
この瞬間は、過去の弟子たちだけでなく、現在の私たちにとっても、日々の生活の中でイエスの心を映し出すことを求める直接的なチャレンジとなっています。
イエスは弟子たちの足を洗われた後、再び上着を着て、元の席に戻られました。
この場面は、イエスの謙遜が彼の権威を損なうものではなかったことを強調しています。イエスは弟子たちに仕えながらも、なお彼らの「主」であり、「師」でした。
イエスは「私があなたがたに何をしたのか、理解していますか?」と問いかけます。それは、単なる行為ではなく、その意味を深く理解し、弟子たちが受け継ぐべき使命であることを伝えるためでした。
弟子たちはイエスを師(ラビ)と呼び、また主(キュリオス)と呼んでいました。彼らはイエスの立場と権威を認めていました。
命令であり、提案ではない(14-15節)イエスは「私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗うべきである」と明確に命じられました。
これは単なる親切な行為ではなく、クリスチャンの生き方の核心となる原則です。謙遜と奉仕が、私たちの人間関係を形作るべきものであることを示しています。
一部のキリスト教の伝統では、文字通り「足を洗う儀式」を行うことがあります。しかし、イエスの命令の本質は単に足を洗うことではなく、しもべの心を持つことにあります。
それは、目立たない、評価されにくい働きに喜んで仕えること。相手の地位や立場に関係なく、必要に応じて奉仕すること。
例???
「しもべは主人にまさることはない」(16節)イエスは、弟子たちに基本的な真理を思い出させました。「もし主であり教師である私がへりくだって仕えたのなら、あなたがたにも同じことが求められる」ということです。
世の中のシステムでは、リーダーは命令し、部下が仕えるという構造が一般的です。しかし、神の御国では、リーダーこそが仕える者となるのです。すべての人が神の前にへりくだり、互いに仕え合うことが求められます。
これは、日本の「おもてなし」(無私のもてなしの心)にも通じる価値観です。イエスの教えは、単なる社会的な作法ではなく、神の御国における生き方そのものです。
真の祝福は行動にある(17節)イエスは、「これらのことを知っているなら、実行することで祝福を受ける」と語られました。ここで強調されているのは、単に**「知っていること」ではなく、「行うこと」に祝福がある**ということです。
私たちの生活の中で、奉仕をためらう領域はないでしょうか?
私たちは、家族、職場、教会の中で、イエスの謙遜の模範をどのように適用できるでしょうか?
イエスの生き方に倣い、愛と奉仕の心をもって歩むことが、真の祝福につながるのです。