日曜メッセージ:「大きな淵」聖書箇所:ルカ16章19節〜31節

タイトル:大きな淵

聖書箇所:ルカ16章19節~31節

皆様と「聞きなさい」というシリーズを続けて学んでいます。皆さんもお気づきの通り、イエスの教えはいつも聞きやすいわけではありません。今日の箇所も、理解することが少し難しい箇所かもしれません。クリスチャンでも、クリスチャンでもなくても、戸惑ってしまう、引っかかってしまう箇所かもしれませんが、心を開く姿勢を持ち、神のみ言葉を聞いてみましょう。

私たちは難しい箇所と触れ合うとき、二つ覚えていなければいけないことがあります。一つ目はみ言葉は全て神の霊感によるものであり、神の真理であることです。難しい箇所も、聞きづらい箇所も全て神のみ言葉であり、神の真理として聞きます。二つ目は、神の真理は自分の理想や考え方と異なることも多いので、一旦自分の考えから離れ、心を開いて神の御言葉を受け入れることです。

カウアイ島にあるワイメア渓谷を訪れたことはあるでしょうか?私は去年初めて、自分の目で見ましたが、なんという美しい光景でしょうか。皆様がおご存じであるように、ワイメアキャニオンは太平洋のグランドキャニオンと呼ばれ、世界でも有名です。渓谷の距離は約14マイル(およそ22.5km)、幅は1マイル(およそ1.6km)、深さは3,500フィート(およそ1,067m)です。もちろん、渓谷は切り立っているので、普通の人は絶対に通れません。不可能です。

同じように、今日の聖書箇所には大きな淵が描かれています。この淵は渡ることはできません。通ることはできません。この淵は神の摂理により定められました。今日はイエスキリストの故に私たちに賜物として神が捧げてくださった、素晴らしい救いを宣言します。

今日の箇所はルカ16章19節~31節です。三つのポイントです。一つ目:良い働きで救いを得ることはできない。二つ目:永遠のいのちを選びましょう。三つ目:神の賜物である福音を分かち合いましょう。

一つ目:良い働きで救いを得ることはできない。ある所に金持ちと、ラザロという貧しい人がいました。二つのイメージが描かれています。一つ目は大邸宅に住んでいる金持ち。彼は紫の布や柔らかい亜麻布を着て贅沢に住んでいます。紫の染料はカタツムリから得たものであり、とても高価です。二つ目は金持ちの門前で物乞いする人です。彼は力もなく、動くことができないように描かれているので、手足の不自由を持っていたことが想像できます。彼の名はラザロで金持ちの食卓から落ちるものを食べ、苦しく生きていました。

気づかれたかもしれませんが、金持ちの名前は不明ですが、貧しい人の名前はラザロであることがわかります。ラザロという名前の意味は「神は助ける」です。そして、犬たちはラザロのできものをなめていた。犬はアメリカでは友達というイメージがありますが、ユダヤ人の世界では犬は不浄な動物でありました。不浄な犬になめられ、ラザロは最低な状態でした。贅沢に住んでいた金持ちは苦しんでいる人のために何もせず、彼のことを助けませんでした。そして時間が経ち、二人とも亡くなり葬られました。

今日の箇所は先週の箇所、不正な管理人の例え話と教えのすぐ後に記されています。先週のメッセージの箇所と今日の箇所には共通点があります。それは、地上の宝の価値は短期であり、虫やさびで傷物になってしまう、ということです。神が私たちから求めているのは地上の宝ではありません。今日の例え話の中の金持ちは贅沢に生きること、自分の幸福しか考えていませんでした。神は良い行為を私たちから求めておられません。神はあなたの心を求めておられます。

私たちは一人一人罪人であり、良い行為でその罪を補うことはできません。私たちの心と知性は汚れていて、神のみ前では私たちは有罪です。私は困っている人に食べ物を分かち合ったから、私はお金を何々資金に寄付するから、私は聖書を毎日読んでいるから、そして毎週教会に通っていたとしても、あなたの立場は変わりません。エペソ2章8節~9節「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」イエスの恵み、神の賜物。あなたは良い働きではなく、信仰によって救わるのです。

二つ目:永遠のいのちを選びましょう。聖書によると死は終わりではありません。死によって地上の体は去りますが、あなたの魂は生き続きます。金持ちの人は亡くなったあと、ハデスという所に連れて行かれ、ラザロはアブラハムの懐に連れて行かれました。ここで金持ちの人とラザロに大きな立場の逆転が表されています。死後、金持ちは苦しみ、ラザロは贅沢に生きています。アブラハムはイスラエルの家長であり、聖書の中でとても尊敬されている人です。地上では地位が低かったラザロは、家長であるアブラハムの懐に連れて行かれました。

聖書の中では死後、人は二つの所に行くと教えています。一方は喜びと平安で満たされているところ。もう一方は苦しみと悲しみがあるところ。一方は世の中の痛みからの安らぎ。もう一方は苦痛。一方は神の栄光で満ちた光。もう一方は暗闇。一方は永遠のいのち。もう一方は永遠の死です。

永遠のいのちは天国を表します。天国は神の栄光で満たされています。天国は太陽も月もありません。なぜなら、神の栄光が太陽以上に照らされるからです。天国は盛大な宴会です。天国は聖なる都です。天国は、神の完全な栄光が明らかにされている所であり、聖徒とともに、神を永遠に礼拝する場所です。

簡単な決断ですよね。どっちかを選ばなければいけなかったら、天国、神の栄光で満たされた場所を選びますよね。私たちの人生の中で一番重要な決断というのは、この質問の答えです。あなたはイエスをあなたの救い主と信じますか?「はい」と宣言しましょう!その信仰告白により、あなたは神の子となり、全ての罪が許され、永遠の命が授けられるのです。イエスはあなたの罪のために、自ら十字架にかかり、想像できない恥と苦しみを経験し、命を失われました。イエスは心からあなたを愛されているから、自分のことを贖いの犠牲にされました。イエスを選びましょう。信仰を選びましょう。永遠の命を選びましょう。

三つ目:神の賜物である福音を分かち合いましょう。私は何年か前に、長崎に行きました。長崎はクリスチャンの歴史が深い地域であります。長崎で多くのクリスチャンは迫害され、殉教しました。長崎市の中心に日本で一番古い教会、カトリックの大浦天主堂という教会が、まだ残っていて、博物館になっています。そこで実際に使われた踏み絵などが展示されていましたが、一番印象に残ったのは地獄の絵でした。写真を撮りましたが、今でもその絵をクリアに頭の中で想像できます。私は絶対にそのような所に行きたくもないし、誰もそんな所に行ってほしくありません。私にとって、この経験は福音を分かち合う原動力になりました。

苦しみを個人的に経験したお金持ちの人は神に、ラザロを自分の家族に送ってくださいと願います。彼は愛する家族が、同じような運命をたどらないように警告したかったのです。お金持ちの人は、死人が復活して、自分の家族の前に現れると、絶対に聞いてくれるだろう、と思いました。しかし、アブラハムは人の心をご存知でありました。ルカ16章31節「アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」み言葉を信じない人は、死人が生き返っても、奇跡が起こっても、「偶然だ」と思い疑うだけです。

私たちが救われる、そして周りの人を救いの導くために私たちが今できる大切なことは、み言葉を受け入れ、信じ、分かち合うことです。人がみ言葉に耳を傾けることを神に願い、穏やかに伝えます。先日お伺いしたお証の話です。ノンクリスチャンの知り合いのお嬢さんが、現在つらい状況にいると聞き、御言葉を通して励ます機会が与えられました。普段、伝道するのは難しいと思っていましたが「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6章34節)という御言葉を伝えることができました。

私たちはいつ命を失うか、わかりません。いつ事故に会うか、いつ病気にかかるのか、私たちにはわかりません。しかし、確実なことは一つあります。ローマ10章9節「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」