日曜メッセージ:「心が重く苦しい時」創世記43章26節〜34節
聖書箇所|創世記43章26節〜34節
タイトル|主と歩む:心が重く苦しい時
私は結構鈍感であまり感情的な人ではありませんが、自分の人生を振り返ると、心が感情で溢れた時がいくつか頭に浮かびます。一つは結婚式です。絶対に妻が感動して泣くと思いましたが、逆に私が号泣しました。もう一つは洗礼式でした。私は青年でしたが、洗礼式で感じた緊張感、そして洗礼式が終わった時の解放感を今でもよく覚えています。最近では娘の誕生です。あの時の不安は言葉で表すことはできません。しかし、何度か、私と妻は抱き合って泣いて、神に祈りました。心が重く苦しい時に神を求めると、神は安らぎと平安を大いに与えてくださると約束されました。
皆様も極度に強い感情を感じたことがあるでしょう。結婚した時。子供が無事に産まれた時。子供が成人した時。愛する人を失った時。病気であると知ったとき。仕事を失った時。感情と言えば色々ありますが、心が重く苦しい時、私たちはその感情をどのように、対処したら良いのか皆様と考えたいと思います。不安や恐れで心がいっぱいな時、神にその気持ちを伝えて、神に平安と愛を求める方法を考えましょう。
聖書の中にもたくさん、感情溢れるエピソードが記されています。その中でも最も有名なエピソードの一つはイエスが愛するラザロの墓を見て、涙を流されたとき。他には、契約の箱がエルサレムに戻された時、イスラエル王であったダビデが主の前で力の限り跳ね回った時。今日はヨセフのその一つのお話です。創世記43章26節〜34節
まず最初に、ヨセフの重く苦しい心を解説しましょう。ヨセフの心は重く苦しかった。
ヨセフの心は重く苦しかった。ユダはベンヤミンと兄弟たちとともに穀物を買うために、そして投獄されていたシメオンを助けるためにエジプトへ戻りました。そこで、兄弟たちは改めてエジプトを支配するヨセフの前に立ちました。彼らは自分たちがどんな目に会うのか全然わかりませんでした。また全員投獄されるかもしれません。殺されるかもしれません。しかし、ヨセフは兄弟たちのことを自分の家に招待しました。そこで、ヨセフは彼らの家族のことに関して質問をし、兄弟たちにごちそうを振る舞いました。
ヨセフが何年も会っていない愛する弟、ベンヤミンに久しぶりに会った時、彼は自分の感情をコントロールすることができませんでした。彼は涙を止めることができませんでした。創世記43章30節~31節「ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と命じた。」ヨセフが感じていたこと、ヨセフが思っていたことを言葉で表すのは中々難しいことです。どんな気持ちだったのか。色々な感情があったでしょう。家族に対する愛。兄弟たちに裏切られた怒り。家族がどうしているのか知りたい気持ち。兄弟たちの本意への疑い。正体がバレてはいけない焦り。大国であったエジプトの支配者としての責任も感じていたでしょう。
ヨセフはこの時点では自分の正体を兄弟たちに明かすことをしませんでした。ヨセフはエジプトの支配者として、感情的なところや、弱いところを見せることはできませんでした。一人で奥の部屋にこもって泣くことは本当に辛かったことでしょう。ヨセフが、自分の気持ちを素直に伝えることができる人は、誰もいませんでした。
さらにヨセフは、兄弟たちに自分の正体を知ってほしくありませんでした。ヨセフはまだ過去のことに関して、兄弟たちは本当のことを語るのか、家族の状態など色々知りたかったので、兄弟たちを試していました。ヨセフはベニヤミンの分をほかの兄弟たちより五倍も多くしました。これはヨセフが末っ子のことを大切にしていること、愛すべき存在と考えていることを表しています。
ヨセフの気持ちは複雑でした。ヨセフの心の中には良い感情と悪い感情が共存し、高ぶっていました。2)私の心が重く苦しい時、その心を神に伝える。
最初にも言いましたが、聖書の中には、自分の重く苦しい心を神に伝える例がたくさんあります。聖書に登場する人物は私たちと同じ人間なので、感情を持つことは当然です。そして、聖書を通して、私たちはその感情をどうしたら対処することができるのか、神に伝えることができるのか、教えてくれます。この世の中では、数え切れないほどの苦しい心への対処法をオファーします。色々な本が出ていますよね。しかし、聖書には重く苦しい感情に対処する、模範が記されているのです。
まず最初に言いたいのは、不安、悲しみ、悩み、重く苦しい心は、ネガティブな感情、ダメな感情ではないということです。愛する人を亡くした時、悲しむことは人間として自然な反応であり、その感情を感じること自体は良いことです。悲しいことや辛いことがあった時、その感情を抑えてしまうのではなく、必要なだけ悲しんでください。そしてその重く苦しい心を神に伝えてみてください。神にその心を伝えることは、悲しみから希望に推移するプロセスに必要です。神は私たちに希望、喜び、愛を備えてくださっています。
詩篇6篇の中では、ダビデ王の深い悲しみと不安が描かれています。詩篇6篇「私は衰えています」「私の魂はひどく恐れおののいています」「私は嘆きで疲れ果てています」「私は波で寝床を漂わせています」「私は弱まっています。」ダビデの魂、ダビデの全ては完全に崩壊するところです。この言葉を記しているダビデのことを考えると、言葉に表せないほど震えている、泣いているイメージです。それでも、ダビデは神にその重く苦しい気持ちを神に伝えました。
詩篇6篇をよく見ると、絶望では終わりません。詩篇6章9節「主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる。」ダビデは神が彼の祈り、彼の気持ちを聞いてくださり、同情してくださり、受け入れてくださった確信を心に留めました。神はご自分の恵のゆえに、救うお方、助けるお方なので、ダビデは神を求めます。神は同じように、あなたの重く苦しい心を聞いてくださり、同情してくださり、受け入れてくださいます。神はひとりごのイエスを贖いの生贄として捧げるほど、あなたのことを愛されています。今、あなたの心の底に捕らわれている気持ちを神に語りましょう。「私は寂しいです」「私は孤独です」「私は怖いです」「私は疲れています。」「私は衰えています」。神は絶対にあなたの祈りを聞いてくださいます。
次のステップはその重く苦しい心、その重荷をイエスに手放すことです。あなたが神に自分の気持ちを伝えると、神はただ「残念だね」とは、答えません。神はあなたの回復を望んでおられます。マタイ11章28節~30節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」あなたの重荷をイエスに手放すと、神は新しい喜び、希望、力を豊富に与えてくださるでしょう。