日曜メッセージ:「私はブドウの木」"I Am The Vine"
聖書箇所:ヨハネ15章1節~8節(週間聖句:ヨハネ15章5節)
タイトル:「わたしはまことのぶとうの木」
皆様、お元気でしょうか?
今日はイエスの最後の「私は」宣言を皆様と学びます。今日で七つ目の「私は」宣言です。これまでの六つの「私は」宣言を覚えていらっしゃるでしょうか?「私はいのちのパン、私は光、私は門、私は良い牧者、私はよみがえりといのち、私は道、真理、いのち、そして今日の7つ目「私はまことのブドウの木」です。(ヨハネ15章1節)
本日の箇所、ヨハネ15章1節~8節には三つの登場人物が出てきます。ブドウの木、農夫、そして枝です。イエスはこう例えられています。私たちはブドウの木であるイエスに繋がる枝であり、木の枝としてイエスに留まらなければならない。今こそ私たちはイエスに留まる必要があります。私たちは今、将来が分からない不安なシーズンを生きています。このような時に命である、私たちの魂を養う、源を求めなければいけません。
この木の枝の例えは聖書の中でもよく知られているものの一つですが、この箇所を読むたびに驚かされます。というのも、この例えは簡潔でわかりやすく、そして何より、イエスは2000年前に人々に言われた同じ例えを今、私たちに語られ、その例えは私たちにも適用する。そんなこと普通は考えられません。神の言葉だからこそ、可能なのです。
まず最初にイエスと親密な関係を持つことはどういう意味で、どういう効果があるのか、そして次に、どうしたらイエスと親密な関係を育むことができるのかと考えてみましょう。3つのポイントを紹介します。一つ目は継続的にイエスと親密な関係を保つことの大切さ。二つめはイエスに繋がっていれば実を結ぶことができる。三つ目はイエスと繋がることは、御言葉を心に留めること。
一つ目は継続的にイエスと親密な関係を保つことの大切さ。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15章4節)イエスはとどまりなさい、と言いました。文法的に命令形です。イエスは気楽に、とどまりなさい、と言っているのではなく、とどまらないといけない、と強く言っています。これはキリスト者に与えられたオプションではなく、必ずしなければいけないことです。とどまっていなければ実を結ぶことができず、イエスの養いの力を得ることができず、切り捨てられます。とどまることはクリスチャンとして、真剣に向き合うべきことです。
とどまるという言葉を考えてみましょう。とどまるというのは言葉通り内にいるという意味です。自分をうちに置く、親密な関係、コネクションを表します。親密な関係というのは、外面だけの親密さではなく、内側、コアな部分の親密さです。イエスを主として崇め、礼拝すること。自分の意思を優先するのではなく、主の御心を優先し、悩みや必要を伝える。とどまることは継続的にイエスに繋がることです。枝はどのように木につながっていますでしょうか。付いたり離れたりするわけではありません。ずっとつながっています。つながっているからこそ、必要な栄養を供給されています。雨の日も晴れの日も、繋がったままです。
私たちとイエスの継続的な関係について、二つ注意しなければいけないことがあります。一つは枝が木につながっているように、ずっとつながらなければならないこと。週に一回、日曜日だけイエスにつながるのではなく、毎日、いつもつながっているべきです。教会に行ってこそ神につながる、という考え方を持っている方もいるかもしれませんが、現在のような状況で教会に行けない時、体の調子が悪い時、集うことができない時もあります。こんな時こそ、イエスにとどまる、イエスと個人的な関係を持つ、という重要性を考え、実行しましょう。
もう一つの注意点は、私たちは助けが必要な時だけブドウの木につながる傾向があります。普段は離れて、自分の好きなように生き、何か必要な時だけ戻ってきて繋がり、栄養であるイエスの支え、癒し、養いを求める。それでもOKならイエスは”とどまる”という言葉をお使いにならなかったでしょう。いつもとどまる、という事はとても大切な事です。
木の枝としてブドウの木であるイエスに留まるということについて私は、子供が親の手を繋ぐようなことだとイメージしています。私の家族は在宅命令のため、毎日4人で近所を散歩しています。今までは車で通るだけで知りませんでしたが、犬を飼っている家が沢山あることや、日本のように瓦屋根の家、枯山水のようなお庭の家を楽しみながら歩きます。子供たちは近所の庭に育っているたくさんの種類のお花を見て楽しんでいます。横断歩道を渡る時には、必ず子供と手を繋いで、車を確認し、子供に「まだ通ったらダメだよ」と教えます。
木の枝としてブドウの木であるイエスに留まるということは、子供が親の手を繋ぐようなことです。親が子供に「ギュッと私の手を持っていなさい」、「私の手を離したらいけないよ」、「私の言うことをちゃんと聞きなさい」親は子供に導きや支えの言葉をかけます。同じようにイエスは私たちを危険から守るようために、支えるために、同じような言葉を語っています。
今日のポイントの二つ目 イエスに繋がっていれば実を結ぶことができる。イエスに留まる人は実を結ぶことができると記されています。「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15章5節)ブドウの木であるイエスから離れていたら実を結ぶことができない。これは当然かもしれませんが、重要なポイントです。枝はブドウの木につながっていて初めて、必要な栄養分を与えられ、立派な実を育むことができるのです。
立派な実は自分の力、能力、スキルだけで結ぶことはできません。実はいのちと養いの源であるイエスにより結ばれます。私たちはこの真実を忘れないように、心に留めなければいけません。私の力ではなく、イエスの力により実が結ばれる。
ブドウの木につながっている枝は、何もせず勝手につながっているわけではありません。枝がより多くの実を結ぶように、農夫である父が枝を刈り込みます。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15章2節)「刈り込む」という言葉はギリシャ語で「汚れなどを除く、浄化する」という意味があります。
刈り込む理由の一つは、植物がより多くの実を結ぶためです。健康な枝も刈り込むことにより、もっと成長します。刈り込みを行わずに放置していると見た目が悪くなるだけでなく、樹木全体の健康が損なわれます。刈り込みによって栄養が十分に蓄えられると抵抗力も強まるので、病気や害虫の繁殖を予防できます。そして余分な枝葉を切り、美しく見せます。今とても恋しいことは毎週チャペルに飾られていた生け花です。毎週毎週、教会メンバーの方々が丁寧に枝葉を切って揃え、美しい作品が用意されています。刈り込みには美しく見せる、という効果もあります。
神は私たちがたくさんの実を結ぶため、強く健康でしっかりと力を蓄え、そしてキリストの似姿として美しく見せるために、枝である私たちを刈り込まれます。
御言葉が何度も、キリストのようになりなさい、模範であるキリストから習いなさい、キリストに倣う者となりなさいと言っているように、キリストの似姿になることによって私たちは、キリストの愛、哀れみ、恵みを今よりももっと反映することができるようになるでしょう。私たちは刈り込まれることで古い姿を捨て、新しく造られ、なお一層イエスを反映します。
「あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」(エペソ4章22節~24節)キリストに留まるとどのような実を結ぶことができるのでしょうか?御霊の実:愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
健康な枝にとって、刈り込みは辛い過程とも考えられますが、必要です。普段、私たちは好きなように成長します。「私はこっちに生えたい」、「私はもう十分な実を結んだ」。しかし、農夫である神は、私たちのことを丁寧に刈り込まれます。私たちがキリストの性質を反映することができるように、今よりもたくさんの実を結ぶことができるために、刈り込まれるのです。時に刈り込みは訓練と考えられるでしょう。訓練を通して、私たちは古い人を脱ぎ捨て、新しくされます。訓練は不快に感じるかもしれません。しかし、あなたをより成長させるため、新しくするために、神は訓練を施されます。
「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」(ヘブル12章11節)訓練は神の愛により施され、イエスの愛は私たちに最善なものを与えます。その愛は、あなたを成長させる愛、あなたを新しくする愛です。あなたにとって、現在の状況は訓練に思われるかもしれません。この訓練を通して、神は何を育もうとされているのでしょうか?あなたをどのように新しくしようとされているのでしょうか?
最後のポイントです。イエスと繋がることは、御言葉を心に留めること。今、イエスと親密な関係を保っていると実感されているでしょうか?答えが「いいえ」であればこれは大切なポイントです。どうしたらイエスとより親密なコネクションを持つことができるのか、実践的に、考えてみましょう。
聖書に記されている、キリストのうちにとどまる方法の一つは御言葉を心に留めることです。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15章7節)御言葉を心に留める。
個人的に御言葉を心に留めましょう。家族として御言葉を心に留めましょう。そして教会として御言葉を留めましょう。シンプルな三つのステップを紹介します。
一つ目のステップ:聖書を読む。聖書を読む前、神に「どうぞ今私に語ってください」と祈りましょう。そして御言葉の導きを受け入れられるよう心を開いてくださいと祈りましょう。
二つめのステップ:御言葉を熟考する。同じ御言葉を何度も読む。暗記する。
三つ目のステップ:祈る。賛美の祈り。感謝の祈り。必要を求める祈り。