日曜メッセージ:「放蕩息子 」ルカ15章11節~32節
タイトル:放蕩息子
聖書箇所:ルカ15章11節~32節
誰でも、物忘れをした経験があると思います。アメリカで行われた研究によると、アメリカ人は一年に合計二日半の時間をかけて、無くしてしまった物を探すそうです。人が一番多く無くしてしまう物は、テレビのリモコン。他には車や家の鍵、メガネ、お財布、くつ、携帯電話。そして、無くした物を探す一回の時間の平均は5分20秒だそうです。私がこの研究結果の中で一番びっくりしたのは、無くす習慣が多い世代です。アメリカではThe Silent Generation(1945年以前に生まれた人)、Baby Boomers(1946年から1964年の間に生まれた人)、Generation X(1965年から1976年の間に生まれた人)、Millennials(1977年から1995年の間に生まれた人)、GenZ(1996年以降生まれた人)と世代が分かれています。なんと、物忘れが強い世代は私の世代、Millennialsだそうです。
今日の例え話は無くなったものが見つかったお話です。お店や公園で一瞬でも子供から目を離してしまうと、親は必死で探します。また、子供が家から立ち去ってしまうと、親はとても心配します。そして、その子供が戻って来るのを待ち望みます。親は子供が家に帰ってくるまで、心配して寝ることも、食べることもできません。
今日の聖書箇所は私たちの歩みと人生を表しています。神はあなたの父であり、あなたを心から愛されています。あなたは神から離れているでしょうか?あなたと神の間に距離があるでしょうか?あなたは神に立ち返る必要があるでしょうか?
今日の例え話を四つのセクションに分けます。1)弟息子の反抗。2)弟息子の困難。3)弟息子の立ち返り。4)兄息子の反論。
1)弟息子の反抗。ルカ15章11節~13節
現代でも同じですが、子供が親に私がもらう予定の財産を今下さいと言うことはあまりよく思われません。当時のユダヤ人の規律によると、財産は父が亡くなってから、分配することが決まっていました。それにも関わらず、弟息子は「今下さい」と要求しました。弟息子はお父さんと縁を切る、関係を絶つつもりでした。家族は、混乱したでしょう。弟息子は家族のことを一切考えず、自由に行動することにしました。
そして、弟息子は全てのものをまとめて遠い国に旅立ちました。彼は自分の家族だけではなく、自分の民族と国から去りました。ユダヤ人の視点から見ると、彼は異邦人の国へ行き、全てを捨てた人だと思っていたでしょう。弟息子はそこで放蕩しました。この言葉はギリシャ語でタネを撒き散らす、という意味の言葉と関係しています。弟息子は何も考えず、自分の貪欲を満たすために財産を浪費しました。
弟息子の反抗は深刻です。彼の反抗により多くの人に迷惑をかけ、父を傷つけました。神のことを考えず、自分勝手な生き方、神にふさわしい礼拝を捧げず、自分の欲を満足させる生き方はどうでしょうか?私たちは無意識のうちに弟息子のように、神から離れてしまうのです。
2)弟息子の困難。ルカ15章14節~16節
全ての財産を失った弟息子の人生は下り坂になりました。今の状況以上に悪くなることが無いと思っていた弟息子は飢饉に直面しました。食べる物が無かったので、彼は豚の世話の仕事を始めました。これはユダヤ人にとって恥ずべきことです。豚は不浄な動物と思われていたからです。イエスの例え話を聞いていた人々はこの弟息子を軽蔑したでしょう。残念ながら、彼は働いてもお腹をいっぱいにすることができませんでした。彼は餓死してしまうのでしょうか?
弟息子の自分の判断により、このような状況になってしまいましたが、飢饉は彼のコントロール外の出来事でした。そして、彼は助けを求めましたが、誰も彼のことを助けてくれませんでした。彼は一人で苦しみました。彼は最低の状態にいました。
彼の困難な状況を考えると、現代のパンデミックのことを思いますね。あなたはパンデミックの影響で何かを失う経験をされたかもしれません。弟息子のように、苦しみを経験されたかもしれません。時には、神は私たちを何もできない状況に置きます。神はご自分の愛とご臨在を明らかにするために、そして神の忠実性を表すために、あなたをそのような状況に置くのです。自分が弱いもの、自分が無力であることを示し、神は「私の身元へ帰ってきなさい」「私が共にいることを知りなさい」とあなたに穏やかに語っておられるかもしれません。
3)弟息子の立ち返り。ルカ15章17節~19節、ルカ15章20節~24節
弟息子は、二つの事に気づきました。このままだったら飢え死にしてしまうが、家に帰ると、食べ物があるからどうにかなること。そしてもう一つは、自分が大きな過ちを犯してしまったことです。この二つ目に気づいたことがポイントです。彼は神に対して罪を犯し、お父さんに対しても罪を犯しました。彼は貪欲で、家族のことを考えず、好き勝手に放蕩しました。彼は家族に迷惑を掛け、お父さんを傷つけましたが、自分が罪ある者であることを認め、謙遜な態度を持って、お父さんのところに帰ることにしました。
このお父さんの行動にびっくりされた方はいらっしゃるでしょうか?お父さんは怒っていてもおかしくありません。叱ってもおかしくありません。当時、家族にとって恥だった息子に対して、駆け寄り、抱き、口づけすることは珍しい行動です。そして、お父さんは息子が帰ったことを祝う、大きな祝宴を始めました。肥えた子羊は特別な催しのためのもので、お父さんは息子の帰りを心から祝いました。
イエスはこの例え話を通して、告白と悔い改めの大切さを教えられています。告白は自分の罪を神のみ前で明らかにすること。弟息子が謝ったように、「神様、私はあなたに対して罪を犯しました。あなたの前に罪ある者です。」そして、悔い改めは罪から立ち返ることです。罪を促す生活から去り、神の御言葉に従う決断をする。悔い改めは、単なる後悔だけではなく、深い罪の認識と罪の習慣を変える努力が伴います。
神は私たちが謙遜な態度を持って罪を告白し、悔い改めると、私たちのことを喜んで受け入れてくださいます。息子が大きな態度で家に帰ってきたら、お父さんは違うように反応したでしょう。お父さんの愛は、神の愛と同じです。私たちが神の御前に立ち返ると、神は心から喜びます。どれだけ、深刻な罪や過ちを犯しても、神はイエスの血により、私たちのことを一人一人許して、受け入れてくださるのです。
告白と悔い改めは私たちの信仰生活の中で不可欠なものです。私たちは日々、罪と肉の働きと戦っていて、日々、罪を犯してしまうのが現実です。ですから、私たちはいつも神の御前に立ち、神のあらわみと恵みを求め、罪を告白し、罪を悔い改めることが大切なのです。
4)兄息子の反論。放蕩息子の例え話の最後に、弟息子の兄が登場します。ルカ15章25節~32節
兄息子は家族を見捨てた弟が帰ってきたことを、なぜ祝うのか理解することができませんでした。しかし、お父さんは兄息子に、喜びなさいと言います。兄息子は実はパリサイ人、律法学者を象徴しています。
ルカ15章には三つの例え話が記されています。この三つの例え話には筋があります。失われた羊、失われた銀貨、そして今日の箇所、放蕩息子です。この三つの例え話はどれも、無くなっていたものが見つかったお話です。イエスの教えを聞いていたパリサイ人は病人や取税人、貧しい人を罪人で汚れていると思っていて、社会的に除け者にしていました。パリサイ人はイエスがこのような人たちとともに食事をしていることを批判しました。このような人たちは神の祝福を受けるべきではないと、主張していたのです。しかしイエスは、神は全ての人を愛されていて、誰でも悔い改めて神に立ち返るならば喜ぶべきだ、と主張されました。
父なる神は、私たちが神へ戻ってくることを求めています。父なる神ご自身が創造されたあなたが神の御前に立ち帰ると、神はどれほど喜ぶのでしょうか?一人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びが天にあり、御使の前には喜びがあります。
私が以前にお会いした方のお話です。この方は日本で育ち、結婚してハワイに移りました。子供の時に教会に通っていて、洗礼も受けました。しかし、生活のなんだかんだが忙しく、いつの間にか信仰から離れて、教会にも通うことも無くなりました。私はこの話を聞いて、今日の例え話を思いました。この方は放蕩息子と同じように、長い間、神のことを忘れ、神から離れていました。私はこの方に「神へ立ち帰る時かもしれません」と言いました。何年も何年も、神のこと無視し、神を見捨てました。今、神の御前に戻りましょう。神は罪を許してくださいます。そしてそれだけではなく、心から喜んであなたを迎えてくださるのです。神に立ち返りましょう。