日曜メッセージ:「盛大な宴会」ルカ14章15節〜24節

タイトル:盛大な宴会 

聖書箇所:ルカ14章15節~24節 

「聞きなさい」というシリーズを通して、ルカに記されている例え話を学んでいます。先週のメッセージのテーマは、私たちが所有物を聖書的にどう扱ったら良いのか、というお話であったので、聞きづらかった方もいるかもしれません。残念ながら、今日も少し聞きづらいテーマであるかもしれません。今日のテーマをシンプルにいうと、神はあなたのことを盛大な宴会に招いておられています。しかしその招きを断ってしまうと、もう2度とチャンスが来ないかもしれない。今日は、聞くだけではなく、応答する大切さを皆様と学びます。

まず最初に、この箇所の文脈を簡単に説明します。イエスはパリサイ派の、ある指導者の家で食事をしていました。パリサイ人は古代ユダヤ教の一派であり民衆の間で大きな勢力を持っていました。当時、彼らはイエスの論敵であり、イエスのことを厳しく批判しました。イエスを招いたパリサイ派の指導者は、イエスを監視するために家に呼んだのでしょう。しかしイエスは、彼の企みをご存知でありました。そしてこの機会を用いて、指導者と他のゲストの、偽善や誤解を指し示し、神のことを教えました。

今日の例え話によると、ある人は盛大な宴会を計画して、たくさんの人を招きました。しかし招待客たちは、行けない、と次々と断りました。主人は怒り、しもべに誰でも良いから、宴会に連れて来なさい、私の家を客でいっぱいにしなさいと命じました。この例え話の主人は神であり、しもべはイエスです。そして、招きを断る人はパリサイ人の宗教指導者であります。パリサイ人は律法に細かく従い、自分たちのことを最も偉くて清いとに思っていました。イエスは彼らに「神は君たちを招いているが、これが最後のチャンスだぞ」と言われました。

三つのポイントです。1)神は盛大な宴会を計画された。)良いほうを選ぶ。3)宴会は予定通りに行われる。

1)神は盛大な宴会を計画された。大きなイベントを計画するためには準備が必要ですよね。準備には時間も、お金もかかり、エネルギーも必要です。結婚式やお葬式、卒業式や誕生日会を計画することはなかなか大変です。コロナ禍なので、去年の子供の誕生日会はZoomで行いました。家族の小さな集まりでしたが、色々と準備は必要でした。私たちの結婚式も大変でした。結婚式と披露宴のプログラムや食事、招待状の準備、会場との交渉など、きりがありません。

ルカ14章16節「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。」神は盛大な宴会を計画されています。この宴会はただの宴会ではなく、史上最大の宴会、私たちの想像を超える宴会であります。神はこの宴会を世の初めから御計画されていて、神はご自分の摂理により、歴史をこの宴会にたどり着くように導かれています。神はこの宴会を催すために、愛する御子、イエスキリストを犠牲にされました。神はこの宴会を催すために、全てを尽くされました。

最初に招いた人たちが行けないと断った時、主人は怒りました。主人の気持ちを少し理解できますよね。大きなパーティーやお祝いの会を頑張って計画したのに、来るはずだった人が土壇場にキャンセルしたら、誰でも、ちょっとイラっとしますよね。どれだけの時間やお金をかけて準備をしたのかわかりますか?と言いたくなります。

神の宴会とは一体何なのでしょうか?盛大な宴会は世の終末、イエスの再臨、新しい天と新しい地の成就を描きます。終末を明らかにする黙示録の中では、終末が宴会のように描かれています。終末の宴会では、全ての涙、全ての悲しみ、全ての苦しみが過ぎ去り、喜びと平安、愛と恵みが溢れます。そして宴会は、神との永遠の交わりを象徴します。天国は神が臨在されているところで、神の栄光で満たされています。

神は私たち一人一人をこの盛大な宴会に招いておられます。神はあなたのことを日々、今、この瞬間にも、招いておられます。「私と共に歩もう」「私の御言葉を聞きなさい」「私についてきなさい」「私に従いなさい」とあなたのことを呼び求めておられます。

2)良いほうを選ぶ。この例え話の中で、しもべは宴会の準備が出来たことを招待客に伝えました。しかし、皆、断りはじめました。「畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。」「五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。」21世紀なので彼らが宴会に参加できない理由にあまりピンと来ないかもしれませんが、当時の日常生活を表しています。畑仕事、家畜のめんどうを見ることは、誰にとってもあり得そうな言い訳です。そして、最後の言い訳です。「結婚したので、行くことができません。これは少しおかしな言い訳ですね。結婚したことと、行けないことはあまり関係がないように思います。

彼らは、日常生活の用事を言い訳として、宴会を断りました。彼らは前もって宴会に参加できるよう、計画することができました。前もって用事を誰かに頼んでおくことも、できました。彼らは自分がやらないといけないことを、宴会よりも優先しました。仕事を優先しました、家事を優先しました、用事を優先しました。彼らが優先したことは悪いことではありませんが、それにより、最善のことを逃してしまいました。どれだけ素晴らしい宴会が計画されているのかを気にせず、他のことを優先してしまった結果です。

同じルカ10章に記されているマリヤとマルタのお話を思いますね。マルタはイエスを家に迎え入れ、イエスをもてなすために、必死でした。家の掃除をしたり、ご飯を用意して、尽くしていました。しかし、姉妹のマリアはイエスの足もとに座って、彼の言葉をじっくりと聞いていました。

マルタはマリアのことを見てイエスに、「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」イエスは答えられました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

マリアは良いほうを選びました。マリアは神の祝福を選びました。マリヤは最も優れた物を選びました。私たちの人生を考えると如何でしょうか?あなたは神の招きを無視していないでしょうか?拒否していないでしょうか?神があなたに「ついてきなさい」「聞きなさい」「従いなさい」と言い続ける中、あなたはどう反応されているでしょうか?

例えば祈り会や日曜礼拝。行きたくない理由はいくらでもあるでしょう。疲れている、休みたい、寝ていたい、洗濯や掃除がたまっている、など。誰でも一度は経験があると思います。しかし、掃除をすることと、神に祈りを共に捧げることを比べると、どちらが良い方でしょうか?日常生活の用事や理由を優先したくなった時、必要な事は一つだけだとイエスがおっしゃった事を思い出しましょう。

日常生活の習慣や責任に、必要以上に捕らわれず、神に「はい、聞きます」「はい、従います」「はい、ついていきます」と言うと、想像を超える大きな祝福が備えられています。祈る機会でしょうか?神を礼拝する機会でしょうか?教会の兄弟姉妹との交わりの機会でしょうか?神の祝福を逃さないように、良い方を選びましょう。

先週のメッセージでは、天の宝と地の宝の違いを学びましたね。私たちはキリスト者として、御言葉を通して、良いほうである、天の宝、永遠の価値を持つ宝、神を喜ばせる宝を選ぶ。同じように、日常生活の中で、私たちは言い訳を言わず、良いほうを選びます。神との関係をより深めるほう、神に栄光を帰するほう、神を喜ばせるほうを選びます。

そして、神はどのような返事を求められているのでしょうか?神は中途半端な答えを求めていません。私たちには二つのオプションがあり、中間はありません。神のご招待を受け入れるか、断るかです。どっちかを選ばなければいけません。神の招きを断ると、その祝福を逃してしまいます。神の招きを受け入れると、大きな祝福が備えられています。チャンスを逃す事なく、祝福を選びましょう。喜びを選びましょう。良いほうを選びましょう。

3)宴会は予定通りに行われる。結婚式の日、いきなりゲストが参加できないと言われても、結婚式は予定通り行いますよね。準備は整えられているので、結婚式の日時を変えることはできません。同じように、宴会は神の摂理により計画されていて、宴会は絶対に予定通りに行われます。

最初に招待を受けた人たちが断ると、しもべに人を探しなさいと命じました。主人は断った人たちを寂しく、恋しく思いませんでした。スペースは十分にあるので、主人は一生懸命人を招きました。まだ席が空いていることを、しもべが主人に報告すると、主人はまた外に出て人を探しなさいと、言いました。主人が計画している宴会は予定通りに行われるので、彼は人をできるだけ集めました。

イエスはパリサイ人の指導者の家でこの例え話を話されています。イエスは律法学者であったパリサイ人たちが神の招きを受け入れなかったら、チャンスを逃して、その招きは他の人々にいってしまうと警告しました。残念ながら、この箇所以降、イエスはパリサイ人と交わることはありませんでした。彼らは招きを逃してしまいました。

私は学生時代、毎日電車で学校まで通勤していました。電車はスケジュール通りで、乗り遅れてしまったら、電車はいってしまいます。祝福の電車、いのちの電車、成長の電車を逃さないようにしましょう。神はあなたに霊的に成長する機会、奉仕をする機会、助ける機会、交わりの機会を日々与えておられます。その機会を見逃さないように受け取りましょう。神があなたに「来なさい」「従いなさい」「聞きなさい」と呼び求められているとき、はっきりと「はい」と答えることができますように。