日曜メッセージ:「パリサイ人と取税人 」ルカ18章9節〜14節
聖書箇所:ルカ18章9節~14節
タイトル:パリサイ人と取税人
私たちは続けて「聞きなさい」シリーズを通して、ルカによる福音書に記されている例え話を学んでいます。今日は私たちにとって重要な質問を探りたいと思います。神は私たちから何を求めていらっしゃるのでしょうか?神の御前で義と認められるためには、何が必要なのでしょうか?神はどのような態度、行動を見て喜ばれるのでしょうか?
今日の例え話は、先週の箇所、不正な裁判官とやもめの話の直後に記されています。今日の例え話も、二人の登場人物が出てきます。一人はパリサイ人。もう一人は取税人。この二人の違いを明確にし、取税人の信仰と態度を反映する方法を学びましょう。
まず最初に、パリサイ人はどんな態度だったのか?1)人を見下す。2)自分の敬虔さを誇る。
パリサイ人はユダヤ教のパリサイ派に所属する人であり、イエスの時代は民衆の間に大きな勢力を持っていました。彼らは宗教的な指導者であり、信仰や儀式の形式に関して、大きな影響力も持っていました。パリサイ人は律法主義であり、神の律法を厳格に守りました。彼らの考え方によると、律法の細部に至るまで忠実に実行することによって、神の正義の実現を追求しました。聖書の中では彼らは律法学者と呼ばれることもあります。しかし、一般民衆とパリサイ人の間には大きな溝があり、イエスは彼らの偽善を厳しく批判しました。
1)人を見下す。ルカ18章11節「パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」人を見下すことは相手を自分より劣っていると思うことです。人を軽蔑することです。上から目線を持つことです。パリサイ人は罪人を見下しました。人を見下すことは、人に対して批判的な態度を取ることです。パリサイ人は自分のことを他人と比べ、自分の地位、自分の力と権威、自分の敬虔さを誇りました。
神は人を見下しません。神は人をえこひいきしません。どんな地位でも、どんな背景でも、過去にどんな過ちを起こしたことがあったとしても、神は公平に扱い、あなたのことを愛されています。神は小さな子供の祈りでも同じように聞きます。神は、あなたが誰にも気づかれない所で行っている奉仕を喜びます。
2)自分の敬虔さを誇る。ルカ18章12節「私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」パリサイ人は自分の敬虔さを誇っています。パリサイ人は規律正しく生活を送っていました。彼は律法が必要としている以上である、週に二度も断食をし、「私は厳しく律法に従っているので、神の御前では義と認められる」と祈っています。ここで描かれているイメージは神へ祈りを捧げているよりも、自分の業績を自分に対して語っているような感じです。「私はすごいな~、私は神に愛されているな~」と思い込み、プライドで満たされています。
当時、ユダヤ教の礼拝の中心はエルサレムにある神殿でした。エルサレム神殿は主に4つのセクションに分かれていて、一番外側の庭は異邦人の庭でした。異邦人の庭はイスラエル人ではない人、外国人の訪問が許可されていた庭です。異邦人の庭はとても大きくて、中心から一番離れています。さらに、不純な人、あるいは罪人は異邦人の庭から、神殿に近づくことはできませんでした。次に、これも外側の庭である、婦人の庭です。異邦人と婦人の庭の間には大きな壁がありました。婦人の庭はイスラエル人の女性が神を礼拝するエリアでした。
次に、内側の庭、イスラエルの庭です。この庭は男子の庭とも言われます。この庭は祭司が生贄などを献げる場所であり、祭壇がありました。そして神殿ですが、神殿は聖所と至聖所の二つに分かれていました。聖所は神殿の聖なる場所と思われていましたが、至聖所はイスラエルにとって最も聖なる場所であり、神殿の一番奥に一段高く、二重の幕によって仕切られていました。イスラエル人の考え方は、神殿の中心に近づくほど、神ご自身に近づき聖なる場所となると理解していました。
なぜ神殿の話をしたのかというと、イエスの例えによると、パリサイ人と取税人は神殿にいたからです。ルカ18章10節「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。」おそらく、パリサイ人は神殿の内側に立っていたでしょう。そして、罪人と思われていた取税人は「遠く離れて立っている」と記されているので、彼はおそらく異邦人の庭にいたのでしょう。パリサイ人は内側の庭に入ることができ、神がご臨在されていると思われていた神殿に近いところに立つことができていました。
パリサイ人は神殿に近づくことができる特権、内側の庭に立つことができる特権を持っていました。しかし、残念ながら、彼は神から遠く離れていました。一方で、取税人は神殿から離れたところに立っていましたが、神には近かったのです。パリサイ人を外側から見ると、すごい人と思われたかもしれませんが、パリサイ人の内側、心は不健全でした。マタイ23章27節「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」神にとって一番大事なことは、あなたの内側、あなたの心です。
二人目の登場人物は取税人です。当時、取税人は罪人と見られていました。私たちの時代、取税人と言えば国税庁で務めている、まともな人のイメージかもしれませんが、イエスの時代は違います。取税人という職業は、ユダヤ人に蔑まれていました。なぜなら、取税人はローマ帝国のために同胞のユダヤ人から税金を取り立てていたからです。つまり、ローマ人の手先と軽蔑されていたのです。彼らは、収入に対する税金や通行税など、さまざまな税金を集めました。
税金を集める仕事の責任者は総督でしたが、実際には、税金を集める〝収税人”を現地で募集し、入札でいちばん高い値段をつけた人に取税人の権利を与え、集めさせました。取税人としての給与は、ローマ帝国から支払われるわけではなく、その分も含めて、ユダヤ人たちから徴税するというシステムでした。彼らはユダヤ人の裏切り者として見られ、貪欲であり、罪人と呼ばれていました。しかし、この例え話の収税人は模範的な信仰を示しました。この例え話を聞いていた人々はびっくりしていたでしょう。
収税人はどのような信仰と態度を表したでしょうか?1)神の憐れみを求める。2)自分を低くする。
1)神の憐れみを求める。ルカ18章13節「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』取税人は自分の胸をたたきました。胸をたたく行動は悲しみと悔い改めを表します。そして彼は神に向かって祈りました「神様、罪人の私をあわれんでください。」この祈りはパリサイ人の祈りと全く違います。パリサイ人の祈りは自己中心的であり、自分の敬虔さを誇っていましたが、取税人の祈りは自分の弱さ、そして神の憐れみが必要であることを祈っています。彼は自分のことを罪人であることを認めました。
旧約聖書の預言者イザヤが神の栄光の前に立った時、彼はどのような反応をしたか覚えていらっしゃるでしょうか?神の栄光が神殿に満ち、敷居の基は揺らぎ、宮が煙で満たされた瞬間、イザヤは語りました。イザヤ6章5節「ああ、私は滅んでしまう。 この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 」彼は自分の汚れ、自分の罪、自分の卑しさを認めました。
私たちも同じように考えなければいけません。私は罪人です。あなたも罪人です。ここには完璧な人、罪がない人はいません。神は聖なるお方であり、私たちは汚れている者です。私たちは祈りを通して神の御前に出る時、自分の罪、自分の弱さを認めなければいけません。
「私は愚かな者です」「私は弱い者です」「私はあなたの愛に値しない者です」「私はいつも罪に負けてしまう者です」というようにまず認め、「神様、私のことをあわれんでください」「お許しください」「助けてください」と神へ願います。神は良いお方、神は憐れみ深いお方なので、謙遜な信仰と態度を持つと、神はそれを見て喜びます。
2)自分を低くする。パリサイ人は自分の敬虔さを誇り、自分のことを高くしました。しかし、収税人は自分のことを神の御前で低くし、謙遜な態度を表しました。ルカ18章14節「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」神は収税人の信仰と態度を義と認められました。
神は私たちから何を求めておられるのでしょうか?収税人はパリサイ人とは違って宗教的な実績、権威や知識を持っていません。しかし、彼は純粋な心、謙遜な心、神を心から仰ぐ心、神を探る心を持っています。神はあなたのことを思うとき、あなたの働きの実績、聖書の知識、敬虔さを求めておられません。神はあなたの心、あなたの深い信仰と献身を求めておられます。第一サムエル15章22節「主は、全焼のささげ物やいけにえを、 主の御声に聞き従うことほどに 喜ばれるだろうか。 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
旧約聖書の時代、人々は神を礼拝するために、動物などを生贄として神へささげました。しかし、神は、人々が謙遜な態度で主のみ声、みことばに聞き従うことを喜ばれます。神にとっては行いよりも、信仰と献身が大切です。考えさせられますね。「私は奉仕をしている」「私は毎週教会に通っている」「私は毎日祈って聖書を読んでいる」「私は献金している」から神に喜ばれているではなく、自分の罪と弱さを認め、神を信頼し心を捧げることを喜ばれているのです。私たちは神の恵み、イエスキリストの救いのみわざにより救われます。私たちは神の恵みにより神に遣わされ、奉仕します。