日曜メッセージ:「主の日に備えて」 マタイ25章1節~13節

タイトル:主の日に備えて

聖書箇所:マタイ25章1節~13節

私たちの生活の中で「待つ」ということは避けられないことですよね。お医者さんに行くと待つ、空港に行くと待つ、買い物に行ってお金を払うのを待つ、電話でカスタマーサービスと話すために待つ。アメリカでこんな待ち時間の統計があります。病院で待つ時間の平均は32分。空港で待つ時間の平均は28分。毎年カスタマサービスと話すために待つ時間は13時間。毎年渋滞で車の中で待つ時間は38時間。私が一番「これは確かだな」と思ったことですが、配偶者が出かけるための準備を待つ平均は21分です。

キリスト者は希望と喜びを持って主の日を待ちます。黙示録の最後に記されているように、私たちは「主イエスよ、来てください」と祈り、期待します。今日の箇所は二つの質問を答えます。一つ目は、主の日はいつなのか。二つ目は主の日が遅れた場合どうしたら良いのか。

三つのポイントです。1)主の日のタイミングは私たちには分からない。2)主の日を待つ間に寝入ってしまう危険。3)自分の信仰は自分でしか建てあげることはできない

現代の結婚式では婚約、結婚式、そして披露宴という流れが多いと思います。私は真弓と婚約をする前に、お父さんに電話して、「真弓のお父様でしょうか。私と会って頂けますか」とお願いしました。今はお父さんと呼んでいますが、最初はお父様でした。お父さんの祝福、許可を求めるために近くにあるファミリーレストランで会いました。私はその時何の話をしたのか、ほとんど覚えていませんが、かなり緊張していたことだけは覚えています。コーヒー飲み放題。お父さんの許可を得て、結婚に導かれました。今日のお話も結婚式の話です。

今日の説教タイトルは「主の日に備えて」です。マタイによる福音書25章1節~13節に記されているこの例えをより深く理解するために、まず当時の結婚の習慣をお話します。当時はまず、花婿側が、花嫁の家に出向き、渡す持参金の額を交渉します。金額が決まったら、花嫁と花婿、そしてその家族は一緒に行進して、花婿の家に行き、そこで結婚式が開かれました。

10人の娘の役割ははっきりと記されてはいませんが、行進に付き添う人、今でいう「bridesmaids」のような役割を持っていたと考えられています。彼女たちもともしびをもって行進に参加し、花婿を出迎えるために待っていました。イエスはこの例え話を通して、ご自分の再臨と、主の日が遅れた場合に関して述べておられます。

1)主の日のタイミングは私たちには分からない。10人の娘は花婿を出迎えるために待っていました。なぜ花婿は遅れたのでしょうか?持参金の交渉がまとまらなかったかもしれません。その理由は聖書に書いてありませんが、花婿は遅くなりました。10人の娘は花婿が出てくることは知っていましたが、いつ出てくるのかわかりませんでした。そして、10人の娘の予想に反して、花婿は非常に遅く出てきました。

主の日はいつなのでしょうか?イエスの再臨はいつなのでしょうか?これは教会の中でも、大きな疑問であり、たくさんの考え方があります。しかし、聖書の中では主の日は近く、そして予期しない時に起こると記されています。泥棒がいつ家に侵入するか分からないように、イエスは戻って来られます。主人がしもべに家の世話を任せ、いつ戻ってくるのかわからないように、イエスは戻って来られます。10人のおとめの例えはイエスの再臨が遅れている場合に、私たちはどうしたら良いのかと教えています。

主イエスは十字架の上で死なれ、復活された後、天へ昇られました。そして、イエスは弟子たちにまた戻って来る、再臨すると約束されました。イエスがしかし、それがいつなのかは述べられません。イエスは即座に戻って来られるかもしれません。イエスは遅れて来られるかもしれません。私たちにはわかりません。神ご自身しか、ご存知でありません。マタイ24章36節「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

主の日がいつなのかは父なる神しか知っておられません。主の日のタイミングは神の御計画と摂理により定められ、誰にも明らかではありません。すなわち、私たちは主の日が近い、迫っていることを意識して、いつも用心していなければいけないのです。主の日に先立つ時期は激しい患難があると聖書に記されています。いつくるか分からないその日のために、いつも霊的な準備をしていなければならないのです。

2)主の日を待つ間に寝入ってしまう危険。10人の娘は一人一人、ともしびを持って待っていました。そのうちの5人はともしびの予備の油を持ってきていましたが、あとの5人は持っていませんでした。ともしびの予備の油を持ってきた娘たちは賢かったと記されています。彼らは花婿が遅くなるかもしれないことを予想し、ともしびが消えないように油を持ってきていました。

彼を待っている10人のおとめはきっとヒマだったでしょう、疲れていたでしょう、少しイライラしたかもしれません。そして彼女たちは気を抜いて、いつの間にか寝入ってしまいました。マタイ25章5節「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。」10人のおとめは夜遅くまで待っても新郎が来ないので、みな眠くなり寝入ってしまいます。

繰り返しますが、イエスの再臨、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。しかしイエスの再臨は近づいています。イエスの再臨は遅かれ早かれあります。イエスが再臨されるまで、私たちは待たなければいけません。待つということは難しいですよね。私たちは何かを待つことは苦手です。10人のおとめが眠くなり、寝入ってしまったように、私たちも待っているうちに、いつの間にか待っていることさえも忘れて、無関心になってしまう危険があります。寝入ってしまう、というのは用心しない、と例えられるのではないでしょうか。

創世記6章によると、ノアの日、人々は神のことを忘れ、堕落していて、自分の道を乱していたと記されています。神はそれをご覧になり、人々と、地とを滅ぼし去ると決められ、ノアに、自分の家族と動物を救うために、箱舟を造りなさいと命じられました。その後、神は約束の通りに、大雨をもたらしました。マタイ24章37節~39節「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。雨が降り出して、洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。」

人々はまさに、寝入っていました。人々は何も考えず、生きていました。用心もしていませんでした。しかし、キリスト者は主の日が迫っていることを意識しつつ、生きます。そうすると、全てが変わります。時間の過ごし方から生き方。時間を大切にするようになります。神の賜物を大事にするようになります。人間関係を大事にするようになります。

今日からでも遅くはありません。イエスの再臨が迫っていることを意識しながら、自分の心を守り、信仰を守り、イエスに留まりましょう。大事なことは、主イエスの再臨は差し迫っていて、心を備えなければいけない、ということです。心を備えるためには、私たちは霊的に目を覚ましておかなければいけません。目を覚ますことは油断をしない、気をゆるめない、注意をおこたらないことです。油断大敵。油断は霊的な害を加える、何よりもこわい敵です。油断してしまうと、悪魔に足がかりを与えてしまいます。第一テサロニケ5章6節「ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」目を覚ますことはただ起きているだけではなく、毎日を大切にし、目的を持って主のために生きます。

3)自分の信仰は自分でしか建てあげることはできない。娘たちが寝入っていると、夜中になって、突然、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がありました。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えましたが、愚かな娘たちのともしびは、油が切れそうになりました。予備の油もありません。彼らは賢い娘たちに『あなたがたの油を分けてください。』と聞きましたが、賢い娘たちは、『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。」と答えました。

ここでびっくりされる方がいらっしゃるかもしれません。なぜ、賢い娘たちは油を分けてあげなかったのでしょうか?意地悪ではありませんでした。実はここに重要なポイントがあります。賢い娘たちは油を分けてあげたくても、できなかったのです。油を分けると、自分たちの分が無くなってしまいます。主イエスの再臨の時、心を備えていない人、用心していない人は手遅れになるのです。主イエスの再臨は裁きの日です。その時に心を備えていなければ、手遅れです。霊的な用心は人に分けてあげることはできません。すなわち、それぞれが自分のともしびの油を持っていなければいけません。ともしびの油はシェアすることはできないのです。

私たちは自分のことは、自分で責任を取らなければいけないということです。妻の真弓の曽祖父は、今でも名前の残っている偉大な牧師でした。しかし真弓は言います。いくら素晴らしい信仰を持った家族がいても、それは私の信仰とは関係がない。ロールモデルが家族にいることは幸せだけど、自分の信仰は自分でしか建てあげることはできない。

同じように、子供が親の信仰に頼ることはできないし、親は子供の分も信仰を持つことはできません。教会に行きなさい、神を信頼しなさいと子供に伝えることはできますが、決めるのは子供自身です。自分で決めて心の中で信仰を持ち、その信仰を生かすのは、子供自身なのです。教会は信仰を建てあげる場所ですが、あなたの心の中の信仰ははあなただけが守り、育てることができるものです。賢い娘たちのように、自分が持っている油をシェアすることは不可能です。信仰は自分の物であり、信仰を守ることは自分の責任です。

用意ができていた5人の賢い娘たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられました。5人にの愚かな娘たちは油を買いに行き、祝宴に戻ると、戸が閉じられていたので中に入ることができませんでした。これは主の日を象徴しています。手遅れな娘たちは祝宴に参加することができませんでした。

私たちは寝るもの、夜の者、闇の者ではなく、目を覚ましているもの、光の子、ひるの者として主の日を迎えます。第一テサロニケ5章8節「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。」キリストの再臨は早いかもしれないし、遅いかもしれません。私たちはその間、目を覚まして、主の到来を街の望みます。