日曜メッセージ:「羊とやぎ」マタイ25章31節〜46節

タイトル:羊とやぎ

聖書箇所:マタイ25章31節~46節

マタイ24章から25章は最後の日、イエスの再臨の教えが色々と記されています。今日の箇所は、最後の日の教えのクライマックスと言えます。最後の日は簡単なトピックではなく、そして今日の箇所もとても難しい箇所ですが、神の御言葉なので忠実に解説し、皆様とともに学んで、信仰生活に適用したいと思います。

聖書の中でイエスは羊飼いとして描かれています。詩篇23編によると、神は羊をいつも支えて守る、と、またエゼキエル34章によると、神はご自分の羊を飼い、彼らを憩わせると約束されました。ヨハネ10章によると、イエスはご自分の命を、羊のために捨てる良い羊飼いである、とあります。そして、マタイ25章によると、イエスは羊をやぎからより分けます。

三つのポイントです。1)イエスは最後の日をもたらす。2)最も小さい者たちを愛する。3)慈悲深い信仰を育む

1)イエスは最後の日をもたらす。今日の箇所の中心はイエスです。最後の日をイエスです。イエスは最後の日を始めるのも、終わらせるのもイエスです。イエスは最後の日、六つの行動を取ります。一つ一つ見ていきましょう。

マタイ25章31節「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」この箇所に二つの行動が含まれています。一つ目の行動:イエスが来られる。イエスは天から地へ降りられます。これがイエスの再臨、イエスの到来です。イエスはお一人で戻られるのではなく、御使たちを伴って来られます。イエスが戻られる目的は、義と公正を完全に成立させるため、そして裁きを施すためです。イエスが来られる時、大きなラッパの響きとともに、イエスは天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに御使たちと来られ、あらゆる国の人々は、それを目撃します。イエスはこっそり隠れて来られるのではなく、誰の目にも明らかです。

二つ目の行動:イエスは栄光の座に着かれる。座に着く、つまり、権威が正式に定められる。2019年、日本で皇室の即位式がありました。国によって、さまざまな即位の儀式が行われ、パレードもあります。これらの皇帝や君主は限られた地域、時代の範囲で国を治めます。しかし、イエスは栄光のみ座に着かれます。このみ座は天の座、神の座であり、全てに勝る座であります。ダニエル7章14節「この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

三つ目の行動:イエスは羊をヤギからより分ける。マタイ25章32節~33節「そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」羊飼いは羊をやぎからより分けます。私たちには想像することが難しいかもしれませんが、当時、羊とヤギは一緒に放牧していたので、羊の群れの中にやぎが混ざることがありました。羊の毛はヤギよりも白いですが、茶色い羊、黒い染みのついた羊もいたので、羊をヤギからより分けるためには鋭い目を持たなければいけませんでした。

羊飼いが羊とやぎを分け理由は、羊を搾乳するためや、夜、ヤギを小屋の中で寝かせる必要があったからだそうです。

四つ目の行動:イエスは羊とヤギを別々に置く。「羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」イエスは羊を右に、そしてヤギを左に置きます。当時、誰かの右側の座に座る人や立つ人は、特別に目をかけられていることを表しました。例えば、イエスは父なる神の愛されている御子であるので、神の右の座にお座りになっておられると聖書に記されています。

イエスは良い羊飼いです。私たちには誰が羊で、誰がヤギなのかは、わかりませんし、言う特権も持っていません。人を分け、裁く特権を持っているのは、イエスご自身のみなのです。

五つ目の行動:イエスは羊に「来なさい」と仰る。マタイ25章34節「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」日本語訳には、明確に訳されていませんが、ギリシャ語では「さあ、来なさい」という意味です。イエスは羊たちに私のところ、私のもとに来なさいと仰います。イエスのみもとに行くことができることは、私たちに与えられた大きな特権です。君主のところに行くためには、まずは呼ばれなければいけません。呼ばれてもいないのに、勝手に行くことはできません。イエスのもとに呼ばれた羊たちには御国を受け継ぐ特権が与えられるのです。

六つ目の行動:イエスはヤギに「離れなさい」と仰る。マタイ25章41節「それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。」これは多くの人にとって難しい箇所、受け入れ難い個所かもしれません。しかし、これは最後の日、イエスの裁きの最後の行動であり、無視することはできません。

これら6つの行動が、最後の日、裁きの日にイエスにより行われます。

2)最も小さい者たちを愛する。マタイ25章40節『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』最も小さい者とは、年齢や体格を言っているのではなく、社会の弱者を表します。社会が忘れてしまう人。助けが必要な人、自分のことを守れない人。空腹な人。除け者。病気の人。牢屋の中にいる人。

しかし、最も小さい者を助けても報いが無い、称賛されない、と思う人もいるでしょう。また、最も小さな者を助けるときは実は一番犠牲を払わなければいけません。肉体的な犠牲。精神的な犠牲。霊的な犠牲。時間とエネルギーの犠牲。数年前の話ですけれども、一人のお母さんと小さな女の子が2週間、家に泊まりました。家庭の問題があり、泊まるところがありませんでした。とても難しい状況だったので、私と真弓は祈り合って、短期間、私たちの家に迎えました。助けることができて何よりですが、私たちの家族が払う犠牲もどうしてもありました。

しかし、神の働きには犠牲が伴います。愛を表すのに犠牲が必要な時もあります。人に食事を届けるとき、料理をする時間とエネルギーが必要です。食料品のお金などもかかります。誰かを車で送るとき、時間もガソリン代もかかります。イエスがあなたのために犠牲を払って愛を示されたように、私たちも犠牲を払ってでも、行動を通して、最も小さい者たちに愛を表します。

最も小さい者だと思っていた人が、実際はイエスであることを知ったらあなたの態度はどう変わるでしょうか?イエスがあなたのドアをノックし、食べ物が欲しい、飲み物が欲しい、泊まらせて欲しい、服が欲しいと言われたらどうしますか?きっと誰でも、相手に対する見方や態度、行動は変わってくると思います。

なぜ、イエスは最も小さい者がご自分であると仰ったのでしょうか?私は、私たちがイエスの教えをいつも心の中で促すことができるように仰ったのではないかと思います。ヨハネ15章12節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う。」

3)慈悲深い信仰を育む。私たちの周りには助けが必要な人、支えが必要な人がたくさんいます。私たちは毎日、仕事に行ったり、買い物に行ったり、クリニックに行ったり忙しくしています。それが当たり前になってしまい、いつの間にか周りの人を気にすることさえも少なくなっているかもしれません。

しかし私たちは、いつイエスに会ってもおかしくないと、覚悟していなければいけません。私は日々の生活の中で、神の愛を行動に移せなかった経験がたくさんあります。あの時、何故何も言わなかったのか?あの時、何故車を止めて人を助けなかったのか。あの時、何故手を伸ばさなかったのか。知らないふり、忙しいふりをして通りすぎた経験はあるでしょうか?

私は今日の箇所を熟考しました。そして、一つ自分に対する大きな変化に気づきました。私は人に対しての慈悲を心の中で感じました。知らない人に対しても深い愛を感じました。マタイ25章35節「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」

現代では、バスの中や待ち時間でも、携帯のスクリーンを見ている人が多くいます。それが悪い訳ではありませんが、それにより、色々な機会を逃していることもあるのではないでしょうか。私たちは、特に都会では、周りの人の存在がまるでないかのように振る舞ったり、自分を目立たなくして生きることが普通になっています。そんな時だからこそ、私たちは今一度手を止めて、目をあげて、周りの状況を見渡すことも大切だと思います。人ともっと良い関係を築くことに時間やエネルギーを使ってみたり、助けが必要な人に連絡してみたり、もう一歩進んで、愛を表してみたり。どんな小さなことでも、行動にうつすことで、大きな違いができるのです。

裁きの日に、神のあなたの周りにいる人が一人一人イエスであると意識して、一人一人は神に尊い創造物であり、神の宝物であり、イエスがその人のために十字架の上で血を流されたことを考えると、いつも下を見て、携帯を見ている場合では無いことが明らかですよね。電車に乗っている人。道で会う人。お店で会う人。教会の人。同僚。親戚。車で通り過ぎる人。