日曜メッセージ:「聖なる者となる」黙示録16章15節
タイトル:聖なる者となる
聖書箇所:黙示録16章15節
1995年、1月17日に発生した兵庫県阪神・淡路大震災により大規模な被害がありました。その時私は、大阪で祖母の家にいました。朝の5時にものすごい揺れに起こされました。天井を見ると、ライトが激しく揺れていて、すごくおびえていたこと、そしてその時、おばあちゃんは私の上に何枚もの布団を置き、守ってくれたことを覚えています。
黙示録のテーマの中心には神の地上での裁き、悪の裁きが記されています。その裁きは7つの封印、7つのラッパ、そして7つのはち、ボウルの印を通して示されています。神の裁きは徐々に激化し、ひどくなります。そして、裁きから出てくるのが義・公正・新しい天と新しい地です。地上の患難が一番ひどい時に、イエスは今日の幸いの言葉を語られました。私たちは黙示録の中の7つの幸いを共に学んでいますが、今日の幸いは7つのうちの3つ目です。黙示録16章15節「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである。」
三つのポイントです。1)目を覚ましてイエスを待ち望む。2)イエスの義の衣を着て、聖なる者としてイエスを待ち望む。
黙示録はとても奥深い本です。メッセージの中では黙示録の概略しか学ぶことができませんが、時間をかけて深く勉強したい方は、ぜひ聖書学び会にご参加ください。聖書学び会では、黙示録の描写や背景、構成などをゆっくり勉強するので、興味がある方は是非来てみてください。
1)目を覚ましてイエスを待ち望む。先週、このチャペルの前の道で大きな事故がありました。横断歩道を歩いていた女性が車にはねられ、病院に救急車で運ばれましたが、残念なことに、亡くなってしまったと警察から連絡がありました。大変な惨事です。その事故は昼間、明るい時に起こりました。皆様、横断をわたる時、どうぞ気を付けてください。車を運転する時、気を抜かないでください。外にいる時はいつも注意していなければいけません。
私たちは常に霊的に用心しなければいけないと聖書に教えられています。黙示録16章15節「見よ、わたしは盗人のように来る。」イエスは予期しない時に再臨されます。泥棒のように、私たちはいつイエスがお戻りになるのかわかりません。私は一度、2年前ぐらいに車上荒らしにあったことがあります。ワイキキの駐車場に車をとめていました。車に戻り、何かがおかしいなと思い、椅子の間にある小物入れをチェックすると、無かったものがありました。ありがたいことに、少しの被害だけでした。人はいつ強盗にあうか、私たちにはわかりません。
目を覚まして待つことは、裸ではなく、いつもイエスの義の衣を着ることです。兵士をイメージしましょう。兵士はいつも戦う準備をしていなければいけません。しかし、よろいを着ず、油断をして寝ている兵士は警報が鳴ると、裸で逃げることしかできません。
ここで言う裸は二つのことを象徴します。一つ目は恥です。当時、裸になることは恥でした。イエスが十字架にかけられた時、イエスの服はぬがされ、ほとんど裸でした。兵士たちはイエスを侮辱するために、恥をかかせるためにイエスを裸にしました。二つ目は準備ができていないという意味です。私の家でも朝、子供たちをパジャマから着替えさせ、朝ごはんを食べさせないといけません。子供たちは普通にパジャマのまま、裸のままで外に出ても何も気にしませんが、「裸は恥ずかしいよ、ちゃんと服を着よう」と教えます。大人も、温泉意外、裸でいることは、普通に恥ずかしいと思います。目を覚まして用心しているキリスト者は裸ではなく、イエスの義の衣をいつも来ていて、準備をしています。
2)イエスの義の衣を着て、聖なる者としてイエスを待ち望む。イエスの義の衣を着ていることは聖なる者としてイエスを待ち望むことです。キリスト者は聖なる供え物を捧げ、神を礼拝します。黙示録16章15節「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである。」聖なる者はイエスの衣を着ます。実は、「衣を着る」よりも「衣を守る」というほうが正確な訳かもしれません。衣を汚さない、衣を着たままにし脱がない。
黙示録の最初の部分に当時の7つの教会宛てのメッセージが記されています。もちろん私たちの教会にも適用しますが、そのうちの一つ、サルディスの教会宛てのメッセージにこのようなことが書いてあります。黙示録3章4節「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。」サルディスの教会の中で、衣を汚さなかった人たちがいました。彼らは神に忠実であり、世の中の誘惑に負けませんでした。
衣を汚さないこととは、純粋な信仰生活を迎えることです。もちろん、一番大切なことは信仰を持つこと、イエスを愛することですが、キリスト者は同時に聖を育成させます。イエスの再臨が近づく間、私たちは罪で満ちた生活を送りません。その代わり、私たちは純粋、愛、義を追求します。私たちは衣を汚す物を追求しません。コロサイ3章8節「しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。」私たちは衣を汚す物を全て捨てますが、万が一衣が汚れてしまったらどうしたら良いのでしょうか?
その汚れは自分の力で洗う、とることはできません。方法は一つだけです。それは、イエスの血潮によってです。私たちはイエスの御前に出て、「ごめんなさい、罪をお許しください」と罪を認めて、告白します。そして、私たちはまた、イエスの義の衣を着て、同時にイエスが喜ぶ物を着ます。コロサイ3章12節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」
そして、私たちはイエスの衣を脱ぎ、他の衣と変えません。救いを施すことができる方はお一人だけです。私たちの信仰と信頼、私たちの献身はイエスに留まります。キリスト者は悪魔と悪、反キリスト者などを礼拝しません。私たちはイエスキリスト、神の子羊を礼拝します。