日曜メッセージ:「ひとつの家族」エペソ2章11節〜22節
タイトル:ひとつの家族
聖書箇所:エペソ2章11節~22節
エペソ人への手紙を通して「神の家族」のシリーズを続けます。
1)キリストにある新しい私。2)キリストにある新しい平和。3)キリストにあって教会が建てあげられる。
1)キリストにある新しい私。エペソ2章11節「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、エペソ2章12節「そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」
今日の箇所は「ですから」から始まります。今日の箇所を理解するためには前の箇所を念頭に置かなければいけません。2章1節から10節は神と人間の和解、そして救いが主なテーマです。私たちは罪の中に死んでいました。そして、罪の中で、この世の流れに従い、世に流されながら歩んでいました。そのため、私たちは神の御怒りを受けるべき人でした。しかし、神はイエスの救いにより、私たちの罪を許し、私たちを死から生かしてくださいました。この恵みのゆえに、私たちは信仰によって救われたのです。これは神と、私たちの垂直線の和解です。イエスの血潮により、私と天におられる神の和解が達成されました。しかし、イエスの血潮は神との和解だけではなく、人間のつながりの和解、水平線の和解も達成されました。互いの間の和解。
パウロによると、人は二つの状態、コンディションに当てはまります。それは、「かつて」と「今」です。かつてのあなたと今のあなた。パウロの言葉を見ると、”かつて”には過去形、”今”には現在形が使われています。例えば、あなたはかつて罪の中に死んでいた。しかし今、あなたは神の恵みにより生かされている。今日の箇所によると、あなたはかつて、離れていた、遠かったと記されています。
現在は、コロナウイルスの影響で、人との距離感を感じることが多いですよね。自由に人に会ったり、時間を過ごすことができません。私も、子供たちが日本にいる祖父母、曽祖父母、親戚に会えなくて、とても寂しく思っています。どれだけ、フェースタイムや電話で繋がっても、直接顔を合わせるのには比べられません。みなさんも、家族や友人と自由に会うことが難しくて、寂しい思いをされていると思います。
パウロによると、私たちはかつて何から離れていたのでしょうか?私たちは神、そして神の家族から離れていました。この箇所をより理解するために、当時の社会的、歴史的な背景を少しお話しします。まず最初にユダヤ人と異邦人。ユダヤ人は神に選ばれた民、神と特別な契約を結ばれた民、神の律法が与えられ、純潔で道徳的だと、自分たちは思っていました。それに対して、異邦人とは、ユダヤ人ではない人、という意味です。異邦人はユダヤ人とは違って、真の神を知らず、世俗的な人と思われていました。初代教会の中でも、このような考え方が、教会の中でトラブルの原因となっていました。
私たちはかつて無割礼の者と呼ばれていました。無割礼の者、とは当時、侮辱的な表現であり、不純な人を示しました。割礼は旧約聖書のアブラハムの時代に定められたユダヤ人のしるし、ユダヤ人であることの証明でした。無割礼の者、とは人を侮辱する言葉、のけ者を意味する言葉です。私たちはかつて、イスラエルの民から除外され、約束の契約について他国人でした。コスコに入るためにはメンバーシップが必要ですね。会員になったら、コスコカードを作ってもらい、それで初めて買い物ができます。メンバーでなければ、お店の中に入ることさえ許されません。私たちはかつて、イスラエルの民というグループの外にいました。このグループのメンバー、会員ではありませんでした。私たちはかつて望みもなく、神もない者でした。神の祝福、神の恵み、神の憐れみ、神の愛がなく、絶望状態でした。
しかし、英語では「but」。ここでは終わりません。全てが変わりました。エペソ2章13節「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」神から遠く離れていたあなたは、キリストの血潮により、近いものとなりました。キリストにより、あなたには届かなかった祝福、恵み、憐れみ、愛が、あなたのものになりました。あなたはもう、外に立つものではありません。あなたには残飯ではなく、神の豊かな祝宴が与えられるのです。
ですから今日、思い出してください。キリストにある新しい自分を。新しいあなたはキリストにあって誰なのか、思い出してください。あなたはキリストにあって全ての霊的祝福が注がれている特別な民であることを思い出してください。あなたはキリストにあって神の家族の一員であることを思い出してください。
2)キリストにある新しい平和。エペソ2章14節「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、」エペソ2章15節「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、」エペソ2章16節「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」
私たちの世の中には隔たりの壁がたくさんあり、とても複雑です。私たちの世の中は何でも壁になりえます。政治的な考え方、ワクチンに対する考え方、社会的な地位、人種の違い、文化や言語。例えばです。アメリカ本土の様々な地域では、一枚の布であるマスクがコミュニティーの隔たりの原因になっています。マスク着用を規則にするのか、しないのか。小さなマスクをめぐって、大きな問題が起きています。
しかし、イエスは平和を達成されました。イエスは平和の君であり、平和を体現されました。イエスは神と私たちの間に(垂直線)平和を成し遂げられただけでなく、人間同志の間の(水面線)平和も成し遂げられました。
ユダヤ人と異邦人の話に戻りますが、この二つのグループの間には大きな壁があるのが分かります。そしてエルサレムの神殿の敷地は、実際に、壁で分かれていました。異邦人は神殿の敷地内に入ることは許されてなく、壁で分かれた異邦人のためのエリアがありました。イエスはその壁を打ち壊されました。さらに、律法も壁のひとつでした。律法の中にはユダヤ人と異邦人を分離する戒めさえもありました。
イエスはこの壁を打ち壊され、廃棄された。そして、イエスは二つのもの、ユダヤ人と異邦人を一つにし、新しい一人の人、ひとつの体を造り上げられました。ふたつをひとつにすることは隔たりの壁を全て取り払ったということです。過去には敵意と分離があった二つのグループはひとつの家族になりました。一時的な平和ではありません。それは永遠の平和と和解です。ふたつをひとつにすることは敵意が無くなるだけでなく、互いに対して新しい敬いと親切が育まれます。パウロはあなたがたは新しい神の家族として「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。」(エペソ4章32節)と教えました。
想像してみてください。教会の中で、前のエリアに座れる人と座れない人を定める規則。人種やバックグラウンドによって分けられる規則。残念なことに、過去にそのような時代もありましたが、イエスはそれを許されません。イエスは、全ての壁を打ち壊されます。全ての壁を超越されます。今、あなたの人生の中にある壁はどのようなものでしょうか?考えてみてください。自分でも気づいていない壁があるかもしれません。イエスの救いのみわざによってのみ、平和と和解が可能です。家族関係、友人関係、教会関係の壁や決裂はイエスの血によってのみ、平和と和解が実現されます。
3)キリストにあって教会が建てあげられる。聖書の中で、教会は様々な言葉で表現されています。教会は神の国、神の家族、神の建物、神の宮、神のみ住まいなど。
教会の美しさは多様性にあります。神は様々な経験やお仕事、賜物や性格を持っている人を集められ、教会を築き上げられます。私たちがどれだけ違っても、私たちの関係の中心があるのがキリストです。多様性がある人々が集まって、そのひとつの教会をたてあげているのです。
エペソ2章19節「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」当時、他国人と寄留者は軽蔑されていて、疑われていました。彼らは市民として同じ権利を持つこともできず、二級市民でした。日本からハワイに移住した方達は、日本から遠く離れ、言葉の違うハワイで生活を送り、重労働や差別に合い、たくさんの苦労をした、と聞きました。一世の移民ははじめ、きっと他国人のように扱われていたでしょう。この会衆の中でも日本から移住し様々な苦労を経験されことがある方もいらっしゃると思います。新しい社会、仕事、文化、言語に馴染まなければいけません。海外へ行くと、そこでは自分が外国人、他国人であることを感じます。私は外の人、私はここに属しない人、私はよそ者。しかし、キリストに血により、あなたは神の国の民の一員として、全ての権利が与えられ、神の豊かな霊的祝福が注がれたのです。
エペソ2章20節「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」イエスは神の国である建物の要の石です。要の石は建物にとって一番大切な石であり、建物全体の基礎です。要の石は一番最初に置かれる石であり、他の石の位置を決める石です。教会は揺るがない、変わらない土台の石であるイエスキリストの上に立ちます。この土台は神のみ言葉を表しています。私たちの教会は神の御言葉を中心として、私たちの教会の基礎として、この教会を立て上げています。
コロナウイルスの影響で、世の中がいつもコロコロ変わり、不安定に感じますね。しかし、教会は安全な場所です。コロナウィルスでも、イエスキリストをかなめの石とする教会はゆるぎません。
エペソ2章21節「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」教会は聖なる宮となります。この宮は物理的な場所や建物ではなく、神の栄光と権威が実現される場所です。私たちは毎週このチャペルで日曜礼拝を行いますが、このチャペル自体はただの建物です。私たちは神の民、家族として、聖なる宮として、キリストにある兄弟姉妹と共に礼拝を捧げます。旧約聖書の神殿の中には神がご臨在されていましたが、今、イエスは聖霊を通して、場所にかかわらず、私たちが集い、礼拝を捧げる場所をご自分のご臨在と栄光で満たされます。場所が大切なのではなく、神に礼拝を捧げる私たちの心と信仰が一番大切なのです。