日曜メッセージ:「どうして心に疑いを抱くのですか?」ルカ24章36節~49節

タイトル:どうして心に疑いを抱くのですか?

聖書箇所:ルカ24章36節~49節

人生の中で大きな疑いを持った時はどのような時でしょうか?何かが怪しいなと思ったことはあるでしょうか?皆さんもご存知の通り、うちには小さい子供が二人います。妻がテーブルの上に置いておいた、お菓子や、パンが無くなっていた時、普通は子供を一番に疑うと思うのですが、私の家では、私が一番に疑われます。「ここに置いておいたお菓子、食べたでしょう!」実際、ほとんどのケースで私が犯人です。

新型コロナウイルスの事がニュースで初めて放送された時、「そこまで心配しないで大丈夫でしょう」「ただの風邪でしょう」と思い込み、パンデミックの深刻さを疑っていました。これはちょっとやばいぞ、と思ったのはしばらくしてからのことでした。今日のテーマは「疑う、doubt」です。疑うとは、確信が持てないことや信頼していないことを表します。

もしかすると今、神に対して疑いを持っている方がいらっしゃるかもしれません。神は私のことを本当に愛してくださっているのだろうか。神は私のことを忘れてしまったのではないか。神は私から離れているのではないだろうか。もしくは、神ご自身の存在自体に疑いを持っていらっしゃる方がいるかもしれません。今日の箇所を通して、イエスが生きておられる真実に確証を持ち、疑いではなく、確信を心の中で育みたいと思います。疑いの反対は確信です。確信することは固く信じて疑わないことです。

今日の箇所は先週のお話の続きです。イエスの二人の弟子が、エマオという場所へ向かっているとき、彼らの前に既に亡くなっていたイエスが突然現れました。その時、弟子たちの目はさえぎられていたので、それがイエスであることに気づきませんでしたが、エマオでイエスとともに食事をしているとき、彼らはこの人がイエスであることを認識しました。そして、二人はイエスがよみがえられたことを11人の弟子たちに伝えるために急いでエルサレムに戻りました。その後、弟子たちが色々と相談していた時、イエスは彼らの真ん中に再度現れました。

弟子たちは幽霊が出たと思い、おびえましたが、イエスは彼らにおっしゃいました。ルカ24章38節「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。」今日、イエスはみ言葉を通して、私たちに同じような質問を聞いておられます。「なぜ、心に疑いを抱いているのですか?なぜ、確信を持っていないのですか?」

今日は皆様と疑いに関して、三つの質問を見ていきましょう。1)神を疑うこととは?2)神を疑うと?3)疑いへの対策とは?

1)神を疑うこととは?誰もが一度は、人生の中で、自分のことを疑った経験があると思います。自分の力や能力を疑ったり、自分が成功できるのか疑ったり、自分の判断が正しかったのかを疑ったり。さらに、人を疑った経験も、誰もがあると思います。人の話を疑ったり、人の行動を疑ったり。そしてまた、神を疑う経験をされたことがある方もいるでしょう。こんなに辛い私の状況を変えて下さらないなんて、本当に神はいるのだろうか。聖書に書かれている話は本当だろうか。

今日の箇所に記されている弟子たちは、女性たちがイエスの墓で目撃した出来事、葬られたはずのイエスの体が無くなっていたこと、エマオに向かっていた二人の弟子が目撃した出来事を把握することが中々できませんでした。彼らはお互いに話し合い、一体どうなっているのか、イエスが過去に仰ったこと、イエスが生きているという人の証、聖書の預言などを組み合わせて、状況を理解しようとはしていましたが、実際はイエスがよみがえられたという事実、イエスが生きておられる現実については、疑っていました。

聖書の中には神を疑うエピソードがたくさん記されています。よく神のことを疑っていた人は旧約聖書のモーゼでした。出エジプト記3章、神はモーゼに燃える柴として現われ、イスラエルをエジプトから導き出せ、とモーゼに命じます。しかし、モーゼは「私には無理です」「私にはそんなことはできないと」言いました。モーゼは神の召命を疑いました。神はイスラエルをエジプトから救うためにモーゼをのことを選ばれましたが、モーゼは神のご計画を疑いました。

詩篇の中では、神への疑問の例がたくさん記されています。詩篇77篇です。「主は いつまでも拒まれるのか。 もう決して受け入れてくださらないのか。主の恵みは とこしえに尽き果てたのか。 約束のことばは 永久に絶えたのか。神は いつくしみを忘れられたのか。 怒って あわれみを閉ざされたのか。」

神の力、神の摂理、神の憐れみ、神の愛、神の約束、神の召命、神の真実。一つでも疑ったことはあるでしょうか。疑いというのは、弱いところに現れます。何かがうまく行かない時、困難の中にいるときに、今まではいなかったのに、ふっと心の中に姿を見せます。

疑うことが良いこととは言いません。しかし、疑いを通して、揺るがない確信が生まれる事があるということも事実です。み言葉は、私たちは子供のように、純粋な心で神のことを信じて、確信を持つように教えていますが、その一方で、疑問に取り組むことも有益であり、疑問を通して新しい確信が育成される事があります。しかし、疑問があることにさえ気づかず、自分で対策ができていなければ、疑いは霊的な害を引き出してしまうかもしれません。

2)神を疑うと?今お話ししたように、疑いが確信を持つ良い動機になれば一番ですが、深刻な問題をもたらしてしまうことがあります。疑いを持つことからの、悪い結果のうち、今日は二つに注目したいと思います。一つ目は不安です。疑いは不安を引き起こします。イエスの死体が墓から無くなったことを知った弟子たちは、たくさんの不安を抱いていました。これからどうなるのか、私たちもイエスと同じように逮捕されて殺されるのかと、不安でした。弟子たちは神が約束されたこと、神が計画されていることまで、考えませんでした。

皆様は同じような経験をされたことはあるでしょうか?「私の人生に意味はあるのですか?」と神の御計画に対して不安を抱く。「私は、人にそして神に愛される価値はない」と神の許しと恵み、愛に対して不安を抱く。疑いの気持ちは、結果として、神への不信仰、不誠実な態度を引き出してしまいます。

長期にわたって神を疑うと、教会から離れてしまったり、祈る習慣を失ったり、御言葉を読まないようになってしまうこともあります。それは信仰生活に大きな損害を引き出してしまいます。もちろんその疑いが深く根付いてしまうと、信仰自体が危険にさらされます。昔、私はが近くの海で泳いでいた時のことです。いきなり海流が私のことを海岸から引っ張りました。海に流されたくなかったので、海流から出るために全力で泳ぎました。

疑いも、同じようなイメージではないでしょうか。疑いに押し流されないように、飲み込まれないように、心と信仰を守らなければいけません。疑いが現れる時、神のみ言葉、神の愛を心にしっかりと留めなければいけません。疑いが現れる時、神に助けと力を求めなければ、しっかりしがみついていなければ、どんどん神から離れてしまいます。ヘブル2章1節「私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。」

3)疑いの対策とは?今日の箇所によると、イエスは弟子たちの疑いにどのように反応されたでしょうか?イエスはご自分がよみがえられたことを証明するために二つのことをされました。一つ目はルカ24章39節です。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」イエスは本当に肉体的に死からよみがえられたことを立証するために弟子たちに、私を触ってみなさいと仰いました。そして、イエスの手と足には十字架の釘のあとが残っていたので、弟子たちはイエスの傷も見て、触りました。

ヨハネによる福音書20章に同じようなお話が記されています。トマスという弟子はイエスが復活されたことを信じることができませんでした。イエスがよみがえられたという他の弟子の証を聞いても、彼は納得できませんでした。彼はこう言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」その1週間後、イエスは弟子たちがいた部屋に現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

それでも弟子たちはまだ確信を持つことがでなかったので、イエスはまたご自分がよみがえられたことを立証するためにもう一つの行為をされました。ルカ24章41節~43節です。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」それから弟子たちの心は開き、彼らはやっとイエスがよみがえられたこと信じました。

弟子たちがイエスの手や足を見て、触った時、それで十分でしょと思うかもしれません。しかし、それでも弟子たちは確信を持つ事ができませんでした。私たちも同じではないでしょうか?私の心も鈍いです。私の信仰も弱いです。しかし、イエスは私たちの人生の中で、ご自分のことを豊かに明らかにしてくださいます。

ここで疑いへの対策を紹介します。それは神のみわざを思い起こすことです。これは過去のことをただ単に思い出すだけではなく、聖書に基づく教えです。神が過去に成し遂げられた助けのみわざ、救いのみわざ、励ましのみわざを思い出すことです。メッセージの最初に詩篇77篇をお読みしました。この詩篇77篇には深刻な神への疑いがたくさん記されていました。しかし、詩篇77篇は疑いで終わりません。疑いの中、主のみわざを思い起こしています。

詩篇77篇11節~12節「私は のみわざを思い起こします。 昔からの あなたの奇しいみわざを思い起こします。私は あなたのなさったすべてのことを思い巡らし あなたのみわざを 静かに考えます。」あなたにとって主のみわざを経験された時は何でしょうか?初めてイエスの愛を知り、イエスがあなたの罪のために亡くなってくださったことを心の中で告白した時でしょうか?神の導き、神の癒し、神の励ましが授けられた時でしょうか?

聖霊の力の故に、信じない者ではなく、信じる者となることができるように、疑いを確信に変えましょう。