日曜メッセージ:「イエスは生きておられる」ルカ24章13節〜35節

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タイトル:イエスは生きておられる

聖書箇所:ルカ24章13節~35節

4月は新しいメッセージシリーズ、Jesus Is Aliveを学びます。イエスは蘇られ、今生きておられます。よみがえられたイエスは私たちの人生にどのように関係するのでしょうか。神のことをもっと知りたい、イエスの死と復活の意味を知りたい、またはイエスの弟子として成長したいという気持ちを持っておられる方はいらっしゃるでしょうか?イエスご自身はあなた側を肉体的に歩いていませんが、イエスは今でも生きてられ、あなたと共におられます。言葉であるイエスは聖霊を通して、あなたに真理を語られます。神を知るためには、イエスの弟子として成長するためには、み言葉を探り、聖霊の助けを求めます。

4つのポイントです。1)目がさえぎられている時。2)み言葉を通して神を知る。3)聖霊を通して、真実が解かれる。4)解かれた真実を分かち合う

1)目がさえぎられている時。エマオを歩いていた二人の弟子に起こった出来事は、4つの福音書の中でルカによる福音書だけに記されています。二人の弟子はエマオという村に向かっていました。エマオはエルサレムから60スタディオン、11キロ、7マイルの距離でした。彼らは暗い顔をして歩いていました。その理由は、主イエスの体が墓になかったからです。弟子たちは、主イエスはもう死んでしまったと思っていました。祭司長や議員の判断により主イエスは死刑を受け、神の子にはふさわしくない、十字架の上で屈辱的な死に方をされました。

弟子たちにとっては、あっけない結末だったでしょう。さらに、主イエスの死体が行方不明。彼らは絶望的だったでしょう。そして二人はこれらの出来事全てについて熱く語り合いながら歩いていました。二人の会話を想像できますね。「一体何が起こったのか」「これからどうしたら良いのか」と話し合ったり、論じ合ったりしていたでしょう。

その時、復活された主イエスは、二人の弟子が歩いている所に現れ、彼らとともに歩きました。しかし、二人の目はさえぎられていて、主イエスであることが分からなかったと記されています。ルカ24章15節~16節です。「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」イエスは何も知らないふりをして、「君たちは何の話をしているのですか?」と尋ねました。すると、一人の弟子、クレオパは驚き、「君、知らないの?」と答えました。エルサレムタイムズという新聞があったとしたら、イエスが十字架に掛かったことは第一面に載っていたような大ニュースだったでしょう。

なぜ弟子たちの目はさえぎられていたのでしょうか?そして、普通だったら、私がイエスです、と言って奇跡を起こしても良いところですが、なぜイエスはご自身であることを、あえて明かさなかったのでしょうか?弟子たちの目は故意にこの人がイエスであることを知るのを妨げられました。これは彼らの問題ではありません。サタンの働きでもありません。神が意図的に弟子たちの目をさえぎられたのです。後ほど、弟子たちは完全に理解しますが、その前に神は彼らに伝えなければいけないことがありました。

クレオパともう一人の弟子は、本当はイエスである人に、必死にイエスが誰だったのかと説明しますが、彼らの説明は不完全でした。弟子たちはイエスのことを「預言者」と紹介しますが、旧約聖書のモーゼやイザヤとは違って、イエスは神の御子であります。さらに、イエスはイスラエルを解放するためだけではなく、神の国を到来させるために来られました。

彼らはイエスの死体が無くなっていたことも分かち合いますが、イエスが復活されたことについては、疑っていました。非常に皮肉ですね。「目の前にイエスがいるでしょ!」「よみがえられているイエスがそこにいるでしょ!」と弟子たちに叫びたいぐらいですね。イエスがよみがえられた、決定的な証拠が目の前にありました。しかし、弟子たちの目はさえぎられました。

神を疑ったらいけない、聖書に記されていることを疑ってはいけないという考え方は、クリスチャンの中で、そして特に教会の中であるかもしれません。しかし、聖書を読んでいくと、神のことを疑う人のエピソードがいくつも出てきます。特に、イエスに一番近かった弟子たちは何度もイエスのことを疑いました。

私が伝えたいことは、疑問に感じることは私たちの霊的成長の一つの段階であり、わからない事があっても大丈夫だ、という事です。いつも神は困難を通して、人を育成されると言いますが、疑問も同じではないでしょうか?神が二人の弟子の目をさえぎられたように、聖霊は理由を持って、私たちから一時的に真実をさえぎられるかもしれません。そして、神の完璧なタイミングに、神の真実をあなたに明らかにされるのです。

2)み言葉を通して神を知る。二人の弟子は、イエスだとは知らず、その人に今まであった出来事、そしてイエスの死と復活を全て説明しましたが、本当のところ、彼ら自身も、何を信じたら良いのか戸惑っていました。イエスは彼らにこう答えられました。ルカによる福音書24章25節~27節です。『「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。』

つまり一言で言うと、聖書に書いてあることが実現する、ということを証明するために、イエスはご自分からは何も明かされなかった、と言うことです。イエスがご自身であることを示されたら、聖書の役割が無くなります。その理由で、あえてご自分であることを明かされませんでした。最終的に、二人の弟子たちの目は開きました。彼らは主イエスが分かち合われた御言葉を通して目が開かれたのです。

私たちは、この話のようにイエスが肉体的に側にいることはありませんが、その代わりに聖書の御言葉から主イエスをより知ることができます。神は私たちにどのようにご自身を現されるのでしょうか?私たちはどうしたら神のことをより深く知ることができるのでしょうか?私たちはなぜ、目に見えない神を知ることができるのでしょうか?イエスが弟子たちに御言葉を通して、ご自分のことを明かされたように、私たちも御言葉を通してイエスのことを知ることができるのです。

イエスは聖書全体に書いてあることを解き明かされました。聖書全体はイエスを指し示しています。聖書に記されている全ての救いの約束、和解の約束はイエスを通して実現されます。聖書に描かれている預言者、または先祖たちが期待していた、待ち望んでいた救い主はイエスを通して実現されます。聖書のクライマックスに立つのがイエスキリストです。神を知るためにはイエスキリストを知らなければいけません。神を知るためには神の言葉を語られたイエスが心に中に留まっていなければいけません。

聖書は難しい、聖書は分かりにくいというイメージを持っている方がいらっしゃるかもしれません。しかし、み言葉は私たちが神を知ることができるために授けられた書物なので、私たちにとって理解できないものではありません。聖書は神秘的ではなく、どんな人でも理解することができる書物なのです。

3)聖霊を通して、真実が解かれる。ルカ24章31節「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」弟子たちの目はさえぎられていましたが、その後、イエスと食事をしている時に、その人が本当はイエスであることが分かりました。この箇所によると、二人の弟子の目が開かれた、と記されています。彼らはイエスがエマオの道に登場された時から、心の内は燃えていました。

霊的な真実を理解することは簡単ではありません。神学的なことを頭で理解することができたとしても、その真実が心に留まることはまた別です。霊的な真実は人を変えます、人を新しくします。しかし霊的な真実を理解するためには聖霊の助けと導きが必要です。聖霊は真理を照らしてくださいます。聖霊は私たちの暗い無知な心を開いてくださり、真理を生かしてくださいます。

神のことをより深く知りたい、神との関係をより深くしたい、そんな時に私たちがするべきことは御言葉を探ることです。み言葉には真実が記されています。み言葉には心を生かす言葉が記されています。み言葉には力と知恵を与える言葉が記されています。み言葉には癒しと支えの言葉が記されています。必ずあなたに必要なことを伝え、教えて、助けとなってくれるでしょう。御言葉は人を生かす。御言葉は人を助ける。御言葉は人を支える。御言葉は人に知恵を与える。

神の御心も同じです。私たちはみ言葉を通して、神の御心が明らかになります。私たちの生活には、分からない事がたくさんあります。納得できないことや、理解できないこと、不公平に思うこともあります。長い間、祈っているのに何も変わらない、癒しのために祈っているのに癒される兆しがない、神に忠実に生活しているのに、他の人の方が良い物を与えられている気がする、誰でもこのように思った事があると思います。私たちは、今、理由を知りたいし、今、問題を解決してもらいたい、と思う傾向にあります。そんな時にみ言葉を通して、聖霊は私たちに神の御心を明らかにしてくださり、新しい平安、新しい確信、新しい力を与えてくださいます。

4)解かれた真実を分かち合う。弟子たちはこの人がイエスであることを認識した後、即座に11人の弟子がいるエルサレムに戻ることにしました。彼らは食事の場所から立ち上がり、11キロの旅に出ました。もう日がくれていたでしょうし、夜の旅は危険でしたが、彼らは目撃したことを早く伝えないといけないと思いました。そして彼らは11人の弟子たちとその仲間に目撃したことを伝えました。

イエスの復活は喜ぶべき、そして人に分かち合うべきことです。普段、どこかのお店でビッグセールをしていたら、人に伝えますよね。良い出来事があったら、人に伝えますよね。しかし、全てのセールや出来事を超越する、最も重要な救いの賜物については如何でしょうか?弟子たちがイエスがよみがえられたことをすぐに伝えないといけないという気持ちを、私たち一人一人にも反映することができるように、祈りましょう。そして、同じように神の大きな恵みや愛を経験した時、その証を他の人とシェアすることも大切です。その証は聞く人の励ましになるでしょう。喜びになるでしょう。

バロウジョン牧師