日曜メッセージ:交わり "Fellowship"

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聖書箇所:使徒2章42節~47節

タイトル:交わり

生物の中には大きなものから小さなものまで、群れを作るものがいます。群れとは、統一した行動をとる集まりです。皆様、鳥や魚の群れを見たことがあると思います。しかし、なぜ生物は群れになるのでしょうか?考えたことはあるでしょうか?群れになる理由の一つは、狩りなどで食糧の確保が効率的になるからです。ライオンをイメージしてください。ライオンの群れは各自が連携をとって、獲物を狩ります。1対1では敵わない敵でも、群れであれば、仕留められます。

また、外敵から身を守るためでもあります。皆が周りを警戒していると、敵が近づいてきた時、気付きやすくなります。一人が標的になりにくくなり、敵の目を攪乱する利点もあるそうです。鳥に餌やりをしている時、一羽が飛び立つと、全員が一緒にバッと飛び立ちます。危険を感じた鳥が飛び立つことで、他の鳥も近くに危険があることに気づき、飛び立ちます。自然はとても興味深いですね。

生き物、そして私たちは、一人で生きることは出来ません。それは神が造られた、私たちの性質です。トムハンクスが出演した、キャスタウェーという映画をご存知でしょうか?トムハンクス演じる、FedExの従業員チャックが乗っていた飛行機が墜落し、チャックは無人島に流れ着きます。そして、4年間、一人でサバイバル生活をします。この映画で特に私の印象に残っているシーンは、孤独なチャックがバレーボールに顔を描き、ウィルソンと名付けて、話し相手にしていたことです。人間は、人との関わり、交わりが必要です。

今月、使徒の働き2章42節から47節を通して、「献身」Devotionのシリーズを皆様と学んでいます。使徒2章42節「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」聖徒達は教会として四つの事、使徒たちの教えを守る、交わりを持つ、パンをさく、そして祈っていた。先週は使徒の教えを守ることを学びましたね。今日は二つ目の、交わりを持つことを学びます。

交わりというテーマは今、私たちにとってとても大切なことです。新型コロナウイルスの影響で、人は皆隔離状態でした。結果、人は以前よりも孤独で、辛さや悲しみを感じやすくなっています。今日、具体的には、交わりについての聖書的な意味、そして必要な交わりをどのように実行したら良いのかを学びます。三つ紹介します。1)互いを成長させる。2)調和に生きる。3)物を共有する。先週話しましたが、新約聖書で「互いを。。。」という表現は94回も使われています。互いを助けなさい、互いを促しなさい、互いのために祈りなさい。互いに罪の告白をしなさい、互いに一致を保ちなさい、互いに仕えなさい。

まず最初に誤解しやすいのが、ここで言う交わりは、お茶の時間ではありません。楽しみを提供するイベントや時間でもありません。これらは、交わりするための手段、促す物なだけです。例えて言うなら、礼拝中だけのことではないし、礼拝後のお茶の時間だけでもなく、毎日持つべきものです。

交わり仲良くすることだけではありません。交わりは世間話をしたり、楽しい時間を過ごすことだけではありません。聖書的な交わりは、私たちの内側から変化をもたらします。聖書的な交わりは神を喜ばせます。聖書的な交わりとは、互いを促し、励まし合い、助け合い、互いのために祈り、互いに罪を告白することです。こう聞くと、聖書的な交わりは楽しいだけのものではないと言うことが分かりますね。簡単ではないとき、不快に感じる時もあるでしょう。

世の中にはたくさんの種類のソーシャルクラブや同好会があります。同じ趣味、好み、興味を持つ人たちが集まって、良い時を過ごします。そういう交わりも私たちに必要です。それに比べて、教会での聖書的な交わりは、もっと深い霊的なもので、神のみ子であるイエスと交わりをもち、そして信仰の兄弟姉妹と交わりを持つことです。

1)互いを成長させる。交わることはデボーショナルライフを共有します。デボーショナルライフとは、神への献身、デボーションを表す生き方で、私たちが神に献身しながら日々を生きる生活です。具体的に言うと、神を礼拝すること、聖書を読むこと、祈ること。これらはデボーショナルライフの土台です。私たちが今行っている礼拝で、共に祈り、共に賛美し、共に聖書を読むことで、デボーショナルライフを共有し、交わりを持っています。

聖書には賛美を持って、互いに語り合う、という箇所があります。エペソ5章19節「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」

私たちは互いに賛美を持って礼拝をする。

家族について少し考えてみましょう。ケンカをしたことのない家族、完璧な家族関係を持っている人はいるでしょうか。きっといないと思います。家族であっても、一人一人、個性も考え方も賜物も違います。意見が合わないこともあるでしょうし、面倒だなと思うこともあるのが普通ではないでしょうか。教会も同じです。教会の中でも個性や考え方や賜物が違う人が集まっているのですから、意見が合わないこともあるでしょう。その私たちをつなげているもの、一つにしているものは何でしょうか?それは同じ主を信じ、唯一の神を礼拝する信仰です。

互いを成長させる、成長する方法は様々ですが、一つは、互いに罪を言い表すことです。ヤコブ5章16節「あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。これを聞いてびくっとする方がいるかもしれません。ただでさえ恥ずかしいことなのに、人になんて絶対言いたくない!それが普通の反応です。自分から進んで、恥ずかしい自分の罪を人に話したいという人がいるでしょうか。

しかしこの箇所では、癒されるために、告白し、祈り合うことが必要だと言っています。罪を言い表すためには、信仰と、成熟と、謙遜が必要です。自分の罪を考えて、恥、後悔、失望や、私はダメな人間だ、と感じても、それを信仰と成熟と謙遜により告白することが癒しへのビッグステップです。

ここで思うことは、自分の罪を神に告白することが必要なことは分かります。でもなぜ他人に告白しなければならないのでしょうか?互いの罪を言い表し、その後に祈りあいなさい、これは招きではなく、命令です。

互いに罪を言い合うことにより、それぞれが罪や恥を取り除いてくださるお方、イエスキリストに向き合うことを助けます。私たちはすでに罪の勝利者であること、イエスの愛により罪を克服することができること、恥が取り除かれたこと。このような素晴らしい救いの真実をもう一度思い起こすために、祈り合います。罪と戦うことは、とても難しいことです。一人で肉と戦うことは難しいことです。しかし互いの支えにより、罪の敗者ではなく勝利者であることを互いに確認できます。

罪を告白することと似ていますが、私たちは偽りを捨て、互いに対して真実を語るように教えられています。親密な交わりを持つためには正直な関係は必要です。エペソ4章25節「あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。自分の悩み、苦しんでいる罪、自分の必要など、真実を語ることは必要です。

困っている人の必要を正直に話してもらえないと、私たちも必要な手助けをすることができません。人は生まれつき、なかなか人に自分のことをオープンにしない性質があります。しかしキリスト者はオープンにするように教えられています。なぜなら私たちはキリストの体の一部分で、皆でキリストの体を形作っているからです。

3)調和に生きる。私は小さい頃から長い間サッカーをしていました。試合に出るのは11人ですが、チームは戦略も、目的も一つです。試合中にチームメイトの一人がいきなり後ろを向いて、オウンゴールをしたりしません。いや、正確にはそういうこともたまにあるのですが、体も同じです。それぞれがバラバラに動くと、正常に機能しません。だから聖書の中では互いに一致を保ちなさい、一つになりなさい、と教えています。

第一ペテロ3章8節「みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。自分の目的、意見ややり方を押しつけるのではなく、お互いを尊重しながら、共に神様の御心を探りながら生きていきましょう。調和に生きることは一つの奉仕、働き、ミッションです。

4)物を共有する。初代教会の様子を聖書で見ると、物を共有していたという記述があります。使徒2章44節~45節「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。」信者たちは自ら進んで、福音の働きを進めるために、財産や所有物を献品したのです。彼らにとって一番大切だったことは福音のため、人の救いのため、教会を立ち上げるためにそのお金や物が使われることでした。

この時代も、現代と同じように自分の所有物、人の所有物、という考え方がありました。それにもかかわらず、初代教会では、福音のため、み国のために、犠牲的に自分の持っているものを捧げ、必要なところに分配をしていました。それは現代の私たちが見習わなければならない所でもあります。

現代では、自分の所有物を全て差し出し、それを必要な所に分配するという方式ではありません。しかし、私たちは神から与えられたものの中から、自分の可能な限りで、福音が述べ伝えられるため、み国のために、犠牲を払って捧げることはとても大切です。それはイエスの私たちに対する犠牲的な愛に通じる所があります。

私たちが福音のために、自分の時間やエネルギーを使うことも、同じです。みなで共有し、共にみ国のために働き、使います。家に人を招いておもてなしをすることも、車を貸してあげること、自分の時間や能力を使って人助けをする、物を共有することは、神が全ての所有者である神から発し、神によって成り、神に至るのです。