日曜メッセージ:「光の子供として歩む」エペソ5章1節~21節
聖書箇所:エペソ5章1節~21節
タイトル:光の子供として歩む
今日のメインの箇所を共に朗読しましょう。エペソ5章8節「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」先週の箇所、エペソ4章で、私たちは神の子供として古い自分を脱ぎ捨て、キリストの血によって新しく造られた自分を着ることを学びました。古い自分から離れ去り、イエスにある新しい自分を生かす。今日の箇所は先週のメッセージの続きです。私たちはキリスト者として、光の子供として歩みます。古い自分、以前の自分は暗闇の中にいた自分。新しい自分、今の自分は光の中にいる自分です。
四つのポイントです。1)光の子供は愛のうちに歩みます。2)光の子供は聖を追求します。3)光の子供は暗闇を明るみに出します。4)光の子は機械を十分に活かします。
1)光の子供は愛のうちに歩みます。新約聖書は元々ギリシャ語で書かれた物です。ギリシャ語の中には「愛」を表す、四つの言葉があります。「フィレオー」、これは兄弟愛、友情を示します。「エロース」、これは性的愛、情熱的な愛を意味します。「ストルゲー」、これは家族間の愛情を意味します。「アガペ」は自己犠牲的、他者中心的な愛を表します。値しない愛を与える。実際、聖書に出てくる言葉はアガペとフィレオーです。
エペソ5章2節「また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。」ここでは「アガペ」が使われています。アガペの愛のうちに歩みなさい。愛されている子、アガペの愛の子として、アガペの愛を受けたものとして、アガペのうちに歩みなさい。
このアガペの愛は、今の世の中に生きる多くの人たちにとって、不自然です。自分のために生きる、自分の成功を追求する、自分の欲を満たすという生き方が、今は普通になって、自分を中心にすることがデフォルト、という傾向があります。しかし、私たちは神に新しく造られました。私たちは新しい自分として歩んでいます。私たちは自己中心的な歩み方、生き方ではなく、神中心的な歩み方、生き方を実行します。
しかし、私たちは神に倣うものとして、イエスに倣うものとして、アガペの愛を持って歩みます。イエスは私たちを愛して、私たちのために、ご自分を捧げ物、また生贄とし、十字架にかかり、私の罪のために亡くなりました。イエスは自己を完全に捨てられました。イエスはご自分のことを空しくされ、しもべになりました。そして、自らご自分のことを低くし、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。この愛が私たちの模範です。私たちはこの愛を追求し、生かし、実行します。イエスの愛より、真の愛、完全な愛はありません。私たちはイエスが表した究極的な愛を模範とします。
この愛を、教会関係、夫婦関係、親と子供の関係、同僚との関係に適用します。私たちは人と交流する時、話し合うとき、イエスに倣い、愛を持って歩みましょう。特に、夫婦関係にとって大切な物はアガペの愛です。夫婦がいつも自己を主張し、相手の考え方やインプットを否定すると、夫婦関係は不安定になってしまいます。
2)光の子供は聖を追求します。パンデミックの影響で、汚いものときれいな物を気にしていることに気づきました。買い物に行ったり、車にガソリンを入れた後、必ず手を洗う、消毒する習慣がつきました。妻は綺麗好きなので、いつも「手を洗った?消毒した?」と聞かれることにも影響されたと思います。
アメリカのある研究による、一番汚い物のランキング1から10です。一番:キッチンのスポンジとお布巾。二番:シンク、蛇口、ハンドル。三番:歯ブラシ。四番:冷蔵庫のハンドル。五番:まな板。六番:リモコン。七番:携帯。八番:財布。九番:スーパーのカート。十番:コンピューターのキーボード。私たちは日常生活の中で、きれいなものと汚いものを頭の中で知っています。そして、汚いものはきれいにしなければいけない、消毒しなければいけないことを知っています。
「聖」も同じです。私たちには霊的に清いものと汚れているものを識別する霊的洞察力が必要です。聖を育むためには汚れたものから離れなければなりません。エペソ5章5節「このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」私たちが聖なるものになるためには、イエスの血しかありません。私たちはキリスト者として聖を求めます。それは二種類、清い体と清い心。
清い体:日本では、性に関するトピックはタブーな傾向がありますが、性的な罪は大きな悪影響を及ぼすので、キリスト者は体を守らなければいけません。聖書によると、あなたの体は聖なる宮です。第一コリント6章19節「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」この体、あなたの体は宮です。すなわち、聖なる物です。私たちは聖なる物を汚さず、聖を保ちます。エペソ5章3節に様々な行動や態度が書いてあります。「淫らな行い」の聖書原語は「ポルネア」です。
清い心:キリスト者は純粋な心を追求します。貪る、とは満足することなく、欲しがり続ける欲です。古代イスラエルにアハブという王様がいました。アハブは王として私たちの想像以上の富を持っていました。アハブは宮殿のすぐ隣にあるぶどう畑を見て、それを野菜畑にするために欲しいと思いました。しかし、このぶどう畑はナボテという人の土地でありました。ナボテは信仰深い人で、この土地は先祖代々受け継いだ地で、主に命じにより譲ることができませんでした。アハブとアハブと妻、イゼベルはナボテの土地をむりやり奪うことを企み、ナボテを殺しました。彼らは非常に貪欲でした。
私たちは体と心を汚すものを捨て、光の子供として聖を追求します。キリストがあなたに与えた光が妨害なく輝くことができるように、善意と正義と真実の実を結びましょう。
3)光の子供は暗闇を明るみに出します。エペソ5章8節「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」私たちは神の子であり、光の子です。以前は暗闇の中を歩んでいましたが、今あなたは光の中を歩んでいます。暗闇の中で家の中を歩くと、壁にぶつかったり、ドアにつま先を足に打ったりします。前が見えない状態です。混乱状態です。暗闇の中に歩む人は
イエスは光です。イエスの顕現により光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。イエスはすべての人を照らすまことの光であります。光は真理、命、栄光を象徴します。イエスによって恵みとまことが実現されました。私たちはキリスト者として、この同じイエスの光を神の子として照らします。
子供が朝起きれない時、起こすためにはカーテンを引いて、日光を入れますね。私の場合、父は私に水をかけ、起こしました。カーテンを引くと、「カーテンを閉めて、眩しいよ~」と言いますね。暗闇に光が照らされたら抵抗があります。誰も心の中身を明るみに出したくありません。誰にも話せない、苦しみでしょうか?誰も知らない、過去の過ちでしょうか?その暗闇を神の光で少しずつ明るみに出しましょう。
そうすると、少しずつ癒しに繋がります。解放に繋がります。喜びに繋がります。光の子は光の実を追求します。光の実は善意、正義、真理です。暗闇の実は人に見られたくない行動や考えです。公にしたくないこと。みんなに知ってほしくないこと。懐中電灯を暗いところに照らすと、その暗の中にあるものは全て明るみに出ます。イエスの私たちの心の暗闇を照らすのです。
エペソ5章14節「 明らかにされるものはみな光だからです。それで、こう言われています。 「眠っている人よ、起きよ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」あなたには光が与えられました。光が与えられた人は光を照らします。イエスの光は世の暗闇も照らします。私たちの世界は現在、暗闇に覆われています。新型コロナウイルスの影響で世界は混乱に陥っています。不景気、解雇、隔離など、困難は言い尽くせません。人々は苦しみ、悲しみ、孤独感で溢れています。しかし、この闇の中に照らされる光。それがイエスキリストの光なのです。イエスにある恵みとまことは世の中に輝いている。
4)光の子は機械を十分に活かします。反抗的だった思春期の私に毎朝母は、「起きなさい!」と繰返し言い続けました。今振り返ると、その時はよく時間を無駄にしていたなあと反省します。聖書では、私たちもキリスト者として、眠りから起きるように教えています。エペソ5章15節~16節「自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」筆者のパウロは、誤った道を歩まないように、そして霊的に眠らないように、知恵を持って注意を払いなさいと言っています。
人間は簡単に怠惰な生活にハマってしまいます。ロックダウン生活にそれを実感した方もいるのではないでしょうか。私たちはキリスト者として、信仰を養い、守り、活かさなければいけません。「活かす」ことは「信仰を保つ」、「信仰を十分に発揮させる」ことです。悪い時代だからこそ、機会を十分に活かし、神の光を照らす必要があるのです。
家族と過ごす時間を大事にしたり、いつも始めたかった趣味を始める。まだ読んだことがない、聖書の箇所を読む良い機会でもあります。困難を経験している人に電話を掛けたり、手紙を書く。家族や親戚一人一人のために祈ることもできるでしょう。
あなたの今の状況を考えると、あなたは神に与えられた機会や時間の管理人(英語: “steward”)として、これらをどのように最大限活用しているでしょうか?機会や時間を無駄にしないで、主の御心が何なのかを探り求めましょう。