日曜メッセージ:「真の礼拝」黙示録7章9節〜17節

タイトル:真の礼拝

聖書箇所:黙示録7章9節~17節

黙示録は礼拝で満ちた本です。黙示録の大きなテーマの一つは礼拝であり、礼拝の中心に立つのがイエスキリストです。黙示録の7つの幸いについて、また来週にお話しますが、今日は礼拝に注目したいと思います。先週のメッセージで、黙示とはオリジナルの言葉では「覆いを取り払う」という意味だということを学びました。では一体何の覆いが取り払われたのでしょうか?それは、まず最初に、キリストの栄光の覆いです。その覆いが取り払われたことにより、私たちはキリストの完全な栄光を見ることができるようになり、イエスにふさわしい礼拝を献げます。

そして次に、イエスの再臨について不明だったことの覆いが取り払われたことにより、私たちは後に何が起こるのか知ることができ、私たちは準備、用心できます。そして、黙示録の中では、「天国」「新しい天と新しい地」について不明だった事の覆いも取り払われます。神の憐れみと愛により、神は私たちに、天国はどのようなところなのかを表してくださいました。天国はどのような所なのか、何を期待することができるのかと知ることができます。

黙示録では天国が礼拝で満ちていることを明確にしてくれました。黙示録の4章には栄光で満ちた麗しい天のみ座が描かれています。そのみ座にお座りになっておられるのはイエスです。天上で行われる礼拝は私たちの礼拝の模範です。黙示録に記されている礼拝はまことであり、純潔であり、聖なる礼拝です。実は私たちが歌っているたくさんの讃美歌は黙示録から作曲されていることをご存知でしょうか。

では、私たちはどうしたら、天で行われているような真の礼拝を、捧げることができるのでしょうか?どうしたら天での礼拝を模範として、地上の礼拝を日々新しくし、天での礼拝を反映することができるのでしょうか?礼拝は簡単に形式中心になってしまいます。かたくなってしまいます。礼拝しても礼拝と感じない方がいらっしゃるかもしれません。今日、新しい献身、新しい賛美、新しい礼拝を捧げましょう。

三つのポイントです。1)共に礼拝する。2)全てを捧げて礼拝する。3)賛美と行動を通して礼拝する。

1)共に礼拝する。黙示録7章9節「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」世界中の人々がイエスを礼拝しています。この大勢の群衆は全ての国民、全ての部族、全ての民族、全ての言葉の人、つまり世界中の人々です。スーパーボウルの観客もすごいですが、それとは比べられません。この群衆は私たちの想像を超えます。

私たちにとってバウンダリー、境界であると思う、人種、全ての国境、言語。神の愛はこれら全てを超越します。神の民は全世界を超越します。これは聖書の始まり、創世記に記されている神とアブラハムの約束が成就されたことを表します。神はアブラハムを始め、アブラハムの子孫を空の星、海辺の砂のように大いに増やし、全ての国々は祝福される、という約束を成就されたのです。

そして、この大きな群衆はみ座の前と子羊の前に立ち、天の王座に就かれたイエスを礼拝しています。礼拝の対象は天のみ座に座られている神の子イエスで、礼拝はキリスト中心です。そして大勢の群衆は白い衣を身にまとっていますが、この白い衣は純潔・清さを象徴しています。

聖書によると、私たちは神の御前では罪人です。罪は私たちを汚します。不潔にします。私たちはどれだけ頑張っても、自分の力でその汚れのしみを取ることはできません。ではどうしたら、そのシミを取り除くことができるのでしょうか?その唯一の方法は、イエスを通してです。イエスの血潮により洗われ、取り除かれます。そして、信仰のゆえに、キリストの義があなたの上を覆い、あなたに新しい白い衣が与えられるのです。これは全て、私たちの働きや頑張りではなく、神の恵みのゆえです。

その時、大勢の群衆はヤシの枝を持ち、神を礼拝しました。ハワイでは、レイで歓迎する心を表すように、当時、ヤシは歓迎、敬意、勝利を表すものでした。棕櫚の日曜日(Palm Sunday)では、いつもイエスのエルサレムの入城を祝いますよね。当時も、人々はヤシを持ち、王であるイエスを迎えました。そしてイエスは今度、天上の王座に着き、世界中の人々がイエスの礼拝します。

黙示録7章10節「彼らは大声で叫んだ。 「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、 子羊にある。」群衆は大声で神への賛美を叫びました。天の群衆は高らかに褒め歌を神へ捧げました。賛美は、私たちの神への喜び、感謝、崇める心を表す行動です。神があなたにしてくださった事や、愛を考えると、自然と心の底から賛美の歌が溢れますよね。私も歌が下手ですが、歌が上手でなくても大丈夫です。神は心を喜ばれます。周りを気にせず、心から神に賛美を捧げましょう。私はたくさんの教会に訪れたことがありますが、賛美が溢れている教会を訪れると、心が感動と喜びで溢れて、印象に残ります。私は今でも兵庫県の明石という所にある教会の賛美をよく覚えています。とても小さな教会でしたが、皆の心からの賛美が、教会堂いっぱいに響いて、とても感動しました。声を合わせて、心を合わせて高らかに神を礼拝しましょう。もし賛美を歌い疲れたら、帰ってお昼寝をしても大丈夫です。

礼拝は、私たちから神へ捧げるものですが、実は、神の私たちへの大きなみわざへの応答です。神の大きなみわざにより、私たちは救われ、その応答として礼拝するのです。罪からの救い。イエスはご自身を私たちのために、生贄の捧げ物として、命を捧げられました。死からの救い。イエスが死を克服され、復活されたからこそ、私たちは死を恐れる必要はありません。悪と暗闇からの救い。イエスは全ての支配者であり、サタンを打ち砕く力をお持ちです。苦しみと困難からの救い。イエスは、私たちを全ての苦難から解放してくださる場所を天国で備えてくださっています。私たちは一つの信仰を持って、神の救いを宣言し、神を礼拝します。

2)全てを捧げて礼拝する。礼拝は生贄です。礼拝することは犠牲を払うことです。「え?」と思う方がおられるかもしれません。聖書の中で礼拝は、「賛美のいけにえを捧げる」(ヘブル13章15節)「聖なる生きた捧げ物を献げる」(ローマ12章1節)と教えられています。旧約聖書の時代、人々は神を礼拝するために、神の神殿で物を捧げていました。また人々は罪の報酬として、家畜や食べ物を生贄にしました。しかしイエスは、神が求めているのは「あなた」ですと教えられました。物ではなく、あなた自身を神へ捧げなさいと仰いました。あなたの心、あなたの献身、あなたの志を神へ生贄として捧げなさい。これが聖なる生きた供物、捧げ物です。

私たちは礼拝という物を小さな箱に入れる習慣を持っています。礼拝はこの日、この時、この場所で行われる。もちろんは私たちは神の民として教会に集い、神を礼拝しますが、礼拝は教会だけで行う物なのでしょうか?イエスは仰いました。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4章24節)

この前後の箇所で、イエスは神は霊なので、礼拝する場所は限られていない、ということを教えられました。私たちは、当時のユダヤ人のように、神の神殿を訪れ、神を礼拝しません。神の家族として、教会に集い礼拝することは大切なことですが、私たちは今、どこでも神を礼拝できます。職場。家。ビーチ。礼拝する時間も、形式も限られません。いつでもどこでも、主に新しいほめ歌を捧げましょう。

黙示録7章11節「御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。」御使たち、長老たち、四つの生き物はイエスがお座りになられたみ座の前にひれ伏し、神を礼拝しました。彼らは額が地面につけ体を平たくしました。体を平たくするためにはプライドを全て捨てなければいけません。ひれ伏すことは服従を象徴します。

そして、彼らは賛美の言葉を告げました。黙示録7章12節「アーメン。賛美と栄光と知恵と 感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に 世々限りなくあるように。アーメン。」皆様、お気づきになられたかもしれませんが、主に7つの賛美の言葉が記されています。黙示録の中では、7という数字は完全、完璧を象徴します。彼らは完全に、全てを捧げて神を賛美しているイメージです。そして、この賛美の言葉は「アーメン」ではさまれています。「アーメン」は「そうありますように」または「賛成」という意味です。「アーメン」と告げると、同意と了解を示します。「アーメン」と告げると、私たちはキリストにある兄弟姉妹として一つの願い事、感謝の言葉、誉れの賛美を神へ捧げるのです。

7つの賛美の言葉の一つ一つ簡単に見ていきましょう。「賛美」は、神を拝する、褒め称えることです。「栄光」は、神は優れているお方であることを、「知恵」は、神が全能であることを宣言します。「感謝」を捧げることは神は良いお方であることを、「誉れ」は、神は恐れ敬うことを、「力」は神は全ての権威と力を持っていることを宣言します。息子は「神は私の砦、私の岩、私のマッスル」と言うのが好きです。「勢い」は神は揺るがないお方であることを宣言します。

3)賛美と行動を通して礼拝する。黙示録7章15節「それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、 昼も夜もその神殿で神に仕えている。 御座に着いておられる方も、 彼らの上に幕屋を張られる。6月人々は昼も夜も神殿で神に仕えている。」彼らは、絶え間なく、神を礼拝しています。ここで描かれているイメージは祭司です。人々は祭司のように、神に仕えています。天国でも人々は神のために仕えます。

これは具体的にどのような働きなのか、奉仕なのかクリアではありませんが、ここで大切なことは礼拝と仕える働きは一体です。働きの実、奉仕の実、宣教の実は、真の礼拝の中から生まれます。私たちも同じように、礼拝と仕える働きを区別しません。これは礼拝、これは働きと区別をしないように、霊的な捧げ物として全てを神に捧げましょう。

天国には、16節に記されているように、飢えもなく乾きもなく、苦しみや痛みもなく、苦労もありません。私たちの体も老化しません。病気にも襲われません。私たちの天国のイメージは、どのような所でしょうか。愛する人と再会できる所、苦しみや痛みから解放される所、永遠の命が与えられる所、神とずっと一緒にいられる所。その天国の中心には、神の栄光で満ちたみ座があります。そこには子羊であるイエスがお座りになっていて、人々は神を礼拝しているのです。