日曜メッセージ:パンを裂く "Breaking Bread"
タイトル:パンを裂く
聖書箇所:使徒2章42節~47節
本日も献身のシリーズの続きです。このパンデミックの中で私たちは、肉体的にも信仰的にも教会や神から離れがちです。このシリーズを通して改めてイエスが、キリスト者として私たちに求められていることを学び、もう一度献身することができるように勉強しています。先週の続きですが、初代教会の信者たちが四つのこと、「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2章42節)今日はパンを裂くことを学びましょう。
誰も自分のことを分かってくれない。自分はこの世界の中で独りぼっちのような気がする、と思った方はいらっしゃるでしょうか?今、そう思われている方はいらっしゃるでしょうか?孤独の問題は新型コロナウイルスの影響でより悪化しています。孤独の問題は、今や世界的に注目されている社会問題です。アメリカでも日本でも大問題です。マザーテレサはこう言いました。「世界で一番恐ろしい病気は、孤独です」。マザーテレサはあらゆる貧困や飢え、病気を抱えた人々を見てきて、こう言うのですから、この言葉には強い説得力があります。
10年ほど前のUNICEFのアンケートで、「自分は孤独だ」と感じる人の割合の統計が発表されました。先進国である日本、豊かで発展した日本では、なんとおよそ30%の子供が自分は孤独だという統計。そして、大人も孤独です。「日常生活での交流がめったに、もしくは全くない」割合はおよそ15%でした。
統計を見て驚くことは、日本人の中で孤独を感じている多くの人は実は若者であることです。日本では、年齢が上がるにつれ、孤独な人も多くなってくる、というのが一般的な見方のようですが、年齢別調査によると、実際に最も孤独を感じているのは20代。60代の方は10%未満です。今やもう、孤独はすべての年代の問題となっているのです。
さて、「教会」という言葉の語源は、ギリシャ語のエクレシアという言葉です。エクレシアは人々の集い、集会という意味があります。教会は孤独な場所ではありません。教会は孤独を全滅させる場所です。教会はキリストにある愛に溢れた交わりを行う場所であります。パンを裂く、とは一見、シンプルな行動です。しかし実はパンを裂くことは、キリストにある交わりを象徴する、深い意味があります。今日はそのパンを裂くことを皆様と学びたいと思います。三つのポイントです。1)パンを裂くことは信仰生活に必須。2)イエスの愛を思い起こすためにパンを裂く。3)イエスにある調和を実現するためにパンを裂く。
1)パンを裂くことは信仰生活に必須。人が集まること、集うこと。ハワイはオハナで集まり、食事をしたり、共に時間を過ごしている人が多いですね。何世代ものファミリーが共に楽しい時間を過ごす。とても素晴らしい文化です。
私が育った家では、夕食は家族と一緒に食べると決まっていました。夕食の時間は家族が集まる時間であり、話をしたり、1日をどう過ごしたかシェアする時間でした。しかし現実には、いつも一緒にご飯を食べることは難しかったです。父は仕事でよく残業をしていたし、私と妹は学校のクラブやアルバイトで夜遅く帰る時もありました。現在でも、小さい子供たちは、テーブルにつきたくない、やっと座ったら5分後、席から立ち遊びたいと言い始める。家族でゆっくり食事をすることは難しいことです。
実は集うことには、時間もエネルギーも労力、そして気持ちも必要です。集いたくない理由はいくらでも簡単に見つかります。今は新型コロナウイルスの影響で集うことが難しくなりましたが、それ以前でも、遠いから行けない行きたくない、他に用事があるから、面倒だから、疲れているから、会いたくない人がいるから集まりたくない、行きたくない。クリスマスや感謝祭の家族の集まりに行きたくない。皆様も思い当たることはないでしょうか。
初代教会も、集うことは簡単ではなかったでしょう。迫害や反対にあう恐れもありました。私たちが毎週集うチャペルのような場所はありませんでしたし、ここのように安全でもありませんでした。しかし彼らは、 「毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにしました」(使徒2章46節)素晴らしい模範です。どんな外的、内的な妨げがあっても、信者たちは心を一つにして集まっていたのです。
彼らは、迫害や反対があったとしても、集まりました。信じられないことに、彼らは毎日集っていました。現代では、私たちは教会のグループ、仕事場のグループ、家族や親戚のグループ、友達のグループなど、交友関係が分かれています。ほとんどの場合、私たちは週に一度、教会でしか会いません。教会の活動や関係は私たちの生活のすべてではなく、一部分ではないでしょうか。しかし、初代教会の人たちは毎日、交わりを持っていました。信仰生活というものは彼らにとって、区分されていたもの、普段の生活に足されたオプション的なものではありませんでした。初代教会の人たちは毎日心を一つにして、交わりと礼拝を行っていました。信仰生活は彼らにとっては、ライフスタイルそのものだったのです。
世の中には、私たちの信仰を揺るがすもの、誘惑するもの、油断させるもの、教会の働きを弱めるもので溢れています。サタンの攻撃でしょうか?自分の弱さでしょうか?私たちが今勉強している、信仰生活にとって重要なこと、1. 使徒たちの教えを守ること、2. 交わりを持つこと、3. パンを裂くこと、4. 祈ること、から引き離されないように、しっかりと目をイエスに向けていなければいけません。
2)イエスの愛を思い起こすためにパンを裂く。実はですね、初代教会では食事と聖餐式を同じ時に行っていました。私たちが行う聖餐式は月に一度、儀式的な形で行っていますが、初代教会にとって聖餐の時間は人々の交わりの一部でした。パンを裂くことで、イエスの素晴らしい愛と恵みを思い起こし、感謝の祈りを捧げます。聖餐の素晴らしさの一つは、一人のために与えられたものではなく、人々が皆集まって行うことです。聖餐式は皆で一緒に参加し、心を合わせて行います。
聖餐式ではイエスの救いのみわざ を思い起こします。イエスの体、パンはイエスがささげ物として捧げた体を覚えます。イエスの血、ブドウジュースは罪の赦しのため、そして新しい契約を象徴します。イエスの体は十字架の上にかけられ、イエスはご自分の血を流されました。イエスは痛みと恥を経験され、苦しみ、死なれました。これはすべて、私たちのために行われました。イエスが流された血は、私たちの罪の代価のために授けられました。イエスは私たちが受けるはずの罰を自ら犠牲的に受けられ、私たちにいのちと義を与えてくださいました。
初代教会が集っていた時にはいつも、彼らはイエスの愛、救いのみわざ を思い起こしていました。私たちが集う時も、初代教会と同じように、イエスの素晴らしい愛を思い起こすことができるのが私の祈りです。私たちが礼拝やミニストリーで集まる時、イエスの愛を思い起こすことができますように。
最後の晩餐で、イエスは弟子たちを集めて食事を振るまいました。マタイ26章26節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。」これが聖餐式の基礎になっています。この一連の流れを通して、主イエスご自身はたくさんのこと、模範、を行動を通して教えてくださりました。集いなさい、主ご自身が食事を振るまい仕えたように人に仕えなさい、時間を共に過ごしなさい、パンを皆で分けたように、皆で分け合いなさい。そしてまた聖餐式のやり方も、主ご自身がデモンストレーションして見せてくださりました。
イエスはここにいたユダが自分のことを裏切ると、わかっていました。それでもイエスはユダにもパンを分け与え、愛と謙遜を表しました。私たちが集う時、食事を共にする時、ミニストリーを行う時、ひとに仕える時、イエスが教えてくださったことを実行しているのです。
3)イエスにある調和を現実にするためにパンを裂く。先ほど、集まったり、パンをさくことを妨げるものがたくさんあることを話しました。実は、初代教会の中でもこのような妨げがありました。初代教会は潔白で純粋なイメージがあるかもしれませんが、実際にはたくさんの問題に直面していました。イエスが模範を表してくださったことすべては、実現することができていませんでした。
人との隔たり、憎み合い、ねたみ、分裂。大きな隔たりは一つは、人種の違いから来るものでした。クリスチャンの数が拡大し、様々な人が教会に集い始めました。ユダヤ人、ギリシャ人、外国人、奴隷、自由人、男性、女性、お金持ち、貧しい人。様々な人が集まることにより、分裂してしまうことも多くあったのです。
問題の一つは使徒の働きの6章に記されています。ギリシャ語を使うユダヤ人から、ヘブル語を使うユダヤ人に対して苦情が出ました。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給で、なおざりにされていたからです。もう一つの問題は第一コリント11章で、コリントの教会が集まりパンを裂いた時、それぞれが我先にと自分の食事をし、空腹な者もいれば、酔っている者もいて、それはイエスの教えと異なっていた。コリントの教会の中では差別、分裂、争い、敵意、ねたみがありました。これはイエスが直接デモンストレーションをして教えてくださった、パンを裂くやり方ではありませんでした。イエスが見せたパンを裂く行動は、一人一人にどんな違いがあっても、公平に、平和と調和を表しました。
今、アメリカでは人種差別の問題が大きな課題となっています。アメリカ中で抗議デモが発生し、先日はハワイでも行われました。アメリカでは深く根付いている人種差別があることは事実で、私たちは平和が訪れるように祈らなければいけません。私は、アメリカに来て初めて、人種差別の根深さを知りました。神学校に通っていた時、一人の黒人の友人が自分の経験を私に話してくれた時でした。彼が子供の時から経験した差別、そして今でも経験している差別を教えてくれました。そして新型コロナウィルスが流行し出した時、アメリカではアジア系に向けての差別もありました。
この世の中は、差別、不調和で溢れています。しかし教会は、そうあるべきではありません。教会は、イエスが表してくださった調和、違いを超越する調和を実現する場所です。私たちが集う時、パンを裂く時、この世の不調和を超越して、平和、調和を現実にします。孤独、差別、ねたみなど、全て取り除いて、愛、平和を示す場所を実現します。