日曜メッセージ:「唯一無二」"One and Only"
聖書箇所:ヨハネ14章5節〜14節(週間聖句:ヨハネ14章6節)
タイトル:「唯一無二」
皆様、おはようございます。いかがお過ごしでしょうか?
ハワイに引っ越してくるまで、ハワイの美しさと言えば海だと思っていました。しかし実際に住んでみたら、山の美しさにも魅了されました。オアフ島の面積の約3分の2を占めるコオラウ山脈は楯状火山が侵食されて残ったもので、島内最大規模の山地を形成しています。エンジニアや建設者は何年もかけて、コオラウ山脈に車が通れる道を作りました。
私たちは現在、ヨハネの福音書の中のイエスの「私は」宣言について学んでいます。今日の箇所では、イエスはこう宣言されました。ヨハネ14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエスを通してでなければ、誰も神である父のみもとにに行くことはできない。つまりイエスが、私たちと神との唯一の仲介者であります。父の御心、父の愛、父のみ声、父の栄光、父の哀れみ、父の力を知るためにはまず、父の御子であるイエスを知らなければいけません。本日の聖書箇所はヨハネ14章5節〜14節です。この箇所でイエスは、父なる神と御子の関係を説明しています。
イエスが道、真理、いのちであるということは、一体どういう意味なのでしょうか?三つのポイントを紹介します。1つ目:イエスは唯一の仲介者。2つ目:イエスは唯一の栄光を表す。3つ目:イエスは唯一の大祭司。唯一という言葉は重要です。唯一は「ただ一つだけでそれ以外にはないこと」と定義します。例えば「島では船が唯一の交通機関だ」「この問題を解決できる唯一の手段だ」。
私が神戸に住んでいた時、よく登山をしました。私が一番気に入っていたトレイルは神戸から有馬のハイキング道でした。体力があるハイカーは4−5時間で行けます。午前中にスタートして、午後には有馬温泉に浸かっておいしい夕食を食べ、名物の炭酸煎餅を食べてから、バスで家に帰るスケジュールは最高です。神戸市と有馬温泉を結ぶトレイルのうちの一つは約12kmで、歴史深く、魚屋道(ととやみち)と呼ばれています。現在ではハイキングコースですが、昔は神戸の海でとれた魚や生活物資を、六甲山を越え、有馬へ運んでいたそうです。12キロもの危険な山道を通って重い荷物を運ぶことは大変だったでしょう。しかし当時は他に道がありませんでした。この道が魚や生活物質を配達するための唯一の道だったのです。
1つ目:イエスは唯一の仲介者。私の父と母は1990年に結婚しました。結婚する前に5〜6年も付き合っていましたが、結婚するまでに少し苦労しました。父はアメリカ人だったので、母の両親から結婚の許可を得るために、仲介人に入ってもらうことになりました。お願いしたのは、私の父が当時教えていた学校の校長先生でした。その人を通して話し合い、結婚の条件も定められ、最終的に結婚が許されました。仲介人とは、人と人との間に立って、橋渡しをしてくれる人を言います。私の両親のケースでは、父は変な人ではなく、信用することができて、家族を養うための十分な給料がある事などを証明してくれる人でした。
イエスも同じような立場に立ちます。イエスはあなたと神の間に立つ、仲介者です。私たちと神の間には、大きな隔たりがあります。この隔たりは私たちの力、能力で超えることはできません。この隔たりの原因は罪です。この隔たりの橋渡しになってくださったのがイエスです。だから父のみもとに立つためには橋であるイエスを通らなければいけないのです。第一テモテ2章5節。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」ここには神は唯一、そして神と人との間の仲介者も唯一であると明確に記されています。
今回のイエスの「私は」宣言は「私自身を通してでなければ、誰も神のことを知ることができない、神のみもとに行くことができない」と主張されています。イエスは「私が道であり、私が真理であり、私がいのちなのです」と宣言されました。神のみもとに立つためには、イエスキリストである道を必ず通らなければいけません。
世の中には4200もの宗教があるそうです。宗教という言葉は日本で、そしてアメリカでも良くないイメージを持つ人もいるので、クリスチャンの信仰を宗教だとラベルすることは個人的にはあまり好きではありませんが、宗教とは何でしょうか?規律?神とのrelationship、関係?それも正解ですが、キリスト教を一言で要約するとpersonだと思います。私たちは仲介者であるイエスキリストの働きと教えにより、神のみ心、神の愛、神のみ声、神の栄光、神の哀れみ、神の力を知ることができます。
2つ目:イエスは唯一の栄光を表す。本日の箇所では、ピリポはイエスに聞きました。ヨハネ14章8節〜10節。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」ピリポは神である父の栄光、そして神の姿を見たかったのです。イエスはそれまでにも、神である父と親密な関係を持っていることを説明していました。しかし、ピリポはこの教えを誤解していたのです。
イエスはガックリしてピリポに答えました。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」
ヨハネの福音書には七つの奇跡が記録されています。1)水をぶどう酒に変える。2)王室の役人の息子を癒される。3)ベテスダで病人が癒される。4)5000人の人に食べ物を与える。5)水の上を歩く。6)生まれつきの盲人が癒される。7)ラザロの復活。これらの奇跡はしるしと呼ばれ、イエスが神の御子であること、世の救い主であること、メシアであることを証明しています。イエスはピリポに語られます。「信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」
私が父のうちにいて、父が私のうちにおられる。すなわち、御子であるイエスは神である父に留まり、父は御子に留まっている。イエスが行うすべてのみ業は、父が行っておられた。それなのにピリポは、イエスとずっと一緒にいるのにまだ父なる神を見ることができていないと誤解していました。しかし、イエスは父を表します。イエスを見ることで、父を見ることができます。イエスが語ることがは父なる神の言葉。イエスが行う働きは父なる神の働き。イエスが父のうちにいて、父がイエスのうちにおられる。イエスは唯一である父なる神の栄光を表す、唯一のお方なのです。
イエスはご自分のことを「真理」と語られました。私たちが今生きている世の中は、真理や価値の絶対性を否定し、真実は人の観点により定めることができると言う考え方があります。しかし、イエスはそのような考え方に反論するお言葉を宣言されました。私は「真理」である。
3つ目:イエスは唯一の大祭司。旧約聖書の時代には人と神との間に立っていた仲介者がいました。アブラハム、モーゼ、預言者、祭司などがそうです。彼らは仲介者として神の御心を人々に語りました。例えばです。出エジプト記32章を覚えていらっしゃるでしょうか?モーゼがシナイ山で神から十戒と律法を授けられた後、イスラエルの民が金の子牛を作ってそれを礼拝した時、神は怒りで人々を絶ち滅ぼすと仰いました。しかし、モーゼは仲介者として、人々を滅ぼさないように主に嘆願しました。結果、主の怒りはおさまり、思い直されました。
祭司は神と民の仲介者、特別な役割を持っていました。神のみ前に民を代表し、神の教えを指導者や民に告げ、霊的な儀式を司ります。
イエスは同じく、大祭司、それも一番優れた大祭司と呼ばれています。大祭司は祭司の中でも最高峰です。イエスが大祭司と呼ばれる理由を見ていきましょう。まず、イエスは祭司のように神のみ前に私たちを代表されました。大祭司と呼ばれながらも、民の上に立つ祭司ではなく、民と共に住まれ、私たちと同じ悩み、苦しみを経験され、同情してくださるお方です。ヘブル4章15節。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」私たちと同じように試みにあわれ、私たちの弱さを理解し、同情してくださる方だからこそ、私たちはイエスを信頼することができます。
次に、大祭司が至聖所に入るように、イエスは神のご臨在の中にお入りになりました。大祭司は年に一度、神殿の至聖所に入っていました。至聖所とは、神殿の一番奥にある、二重の幕によって仕切られた最も聖なる場所です。大祭司であるイエスは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られました。
最後に、イエスは大祭司としてご自分の命を捧げられました。当時大祭司は、動物を生贄にして、神の御前で罪を贖いました。しかし、イエスは動物ではなく、ご自分を生贄として、血を流されました。ヘブル9章12節。「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」イエスはご自分の体を生贄として捧げることで、私の罪のため、あなたの罪のために贖いを成し遂げられました。以上のことから、イエスがいかに優れた大祭司かが、分かります。
最後に、CSルイスという20世紀のイギリスの神学者が執筆した『キリスト教の精髄』という本にこうあります。「ここで私は、イエス·キリストについてよく人が言う、あのばかばかしいコメントを、もう誰もが言わなくなるようにしたいのです。つまり『私は、イエスは、素晴らしい教師としては受け入れられるが、彼が神であるという主張は、どうも受け入れられない。』というコメントです。これは、決して言ってはならないことです。単なる人間でありながら、イエスの言ったようなことを言う者がいたら、それは、すばらしい道徳の先生なんかではありません。あなたは、この方が、神の息子であるか、または、さらにもっとひどい何者かのどれかという選択をしなければいけません。彼をただのばか者だと決めつけるか、つばを吐きかけ悪魔と呼んで殺すか、それとも彼の前にひれ伏して、彼を主である神としてあがめるかの選択です。しかし彼が偉大な教師であるなどという、思い上がったナンセンスだけは言わないようにしましょう。イエスは、私達にそのような選択の余地は与えませんでした。そんな意図は最初からなかったのです。」