復活祭メッセージ:「主よ、なぜですか?」”Why Lord?”
復活祭日曜メッセージ:「主よ、なぜですか?」”Why Lord?”
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1節~44節
おはようございます。復活祭、おめでとうございます。皆様、如何お過ごしでしょうか?
今年は残念ながら、教会で皆様とご一緒に復活祭を祝うことができませんが、私たちは聖霊によって一つです。皆様、それぞれの場所で祝福された復活祭を祝うことができますように。そして、何よりも、イエスの御名が崇められ、全ての栄光を帰することができますように。
今日の聖書箇所はヨハネの福音書11章1節から44節です。この箇所は私にとってとても大切な箇所です。何故なら、私が初めてカリヒユニオン教会に訪れた時にメッセージをした聖書箇所だからです。2017年の11月でした。あの時は緊張しました。その時から2年半の後、同じのラザロの復活の奇跡の箇所を皆様とイースターに分かち合えることはとても嬉しいです。
牧師になってから、人生に関する難しい質問を聞かれます。一番聞かれる質問は「なぜ人は苦しむのか?」、「なぜ悪くない人に悪いことが起こるのか」です。現在、新型コロナウイルスの感染が爆発的に広がる中、これはタイムリーな質問です。神は全治全能なのに、なぜこのウイルスで何万人もの人が亡くなっているのか、と思った方はいらっしゃるでしょうか?これはとても難しい質問です。しかし、神が私たちに与えてくださった御言葉を探ると、答えが備えられていると思います。
今日の聖書箇所は、ラザロの復活についてです。少し長い箇所なので、ビデオを一旦止めて聖書を開き、ヨハネの福音書11章1節~44節を読んでみましょう。今日の聖書箇所でイエスは究極のご主張を示されました。「私はよみがえりであり、命である。」このラザロの復活の奇跡は、聖書の中でも、とくに素晴らしい奇跡と言えます。そしてヨハネの福音書の中でイエスが起こした7つの最後の奇跡でもあります。そういう理由からこの奇跡はクライマックス的であり、印象的です。ラザロは四日間、墓に葬られていたけれども、イエスがラザロに「出て来なさい」と命じると、ラザロは墓から出て来ます。
ラザロの復活のお話に一つ不思議な点があります。それは、イエスは友人であったラザロが病んでいたことを聞いた時、意図的にラザロの元へ行かなかった、という点です。何故でしょうか?友人であったラザロには死が迫っていました。それでも、イエスは即座にラザロの所へ行かれませんでした。そしてイエスは不思議なことを言われました。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(ヨハネ11章4節)そして、イエスは二日間も同じ場所に留まりました。ここで、疑問がいくつか出てきますね。「イエスは何故、愛する友人の所に急いで行かなかったのか?」「イエスは病を癒す力を持っているのに、何故ラザロを癒さなかったのか?」
ラザロの姉妹であるマルタとマリアも同じ疑問を持っていました。イエスはラザロ、マルタ、マリアのことを愛していました。しかし、イエスがついにラザロに会いにきた時、ラザロは既に亡くなっていました。イエスが来られた時、マルタはイエスのことを迎えましたが、マリアは家に残りました。そして、マルタはイエスに言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11章21節)マルタはイエスが何故、苦しんでいたラザロの所へ来て、病を癒されなかったのか理解することができませんでした。そして、後ほど、マリアは同じ質問をイエスにしました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11章32節)彼らは、「イエスは私たちの家族のことを愛されていなかったのだろうか?」と思ったでしょうか。
あなたも今、神に対して、「もし神が私を愛されているなら、私はなぜこんなに苦しんでいるのだろうか?」と思っているかもしれません。新型コロナウイルス感染病が世界中に広まる中、人々は苦しんでいます。失業した人、病を患っている人、孤独な人、経済的に苦労している人。そんな時に神を疑ってしまったり、自分から離れている感じがするでしょうか?マルタとマリアもきっと同じように感じていたでしょう。
イエスがラザロの墓に行った時、墓の入り口は、石でふさがれていました。そして、イエスは言われました。「その石を取りのけなさい。」マルタは困ってイエスに言いました。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」ラザロの死を悼むために集まっていた親戚、友人などは信じられなかったでしょう。
しかし、イエスは最初に言われたことを繰り返されました。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハネ11章40節)最初にラザロが病を患っていることを聞いた時イエスは、この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものであり、神の子が栄光を受けるためだと言いました。どうしたら病気と死を通して、御子の栄光が表されるのでしょうか?
ラザロの墓の石が取り除かれた後、イエスは「ラザロよ、出て来なさい。」と命じられました。「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11章44節)
なんと、死者のラザロは奇跡的によみがえりました。この御技によって、イエスの「私はよみがえりであり、命である」ことが証明されました。イエスはラザロの家族を心から愛されていたのでした。愛していたからこそ、遅れてラザロの所へ行かれました。愛していたからこそ、生きているうちにラザロの病を癒されなかったのです。
イエスの目的は御子の栄光を表すためでした。すなわち、イエスが救い主であること、イエスが神の御子であること、イエスが主であることを彼らに理解させるためでした。イエスはご自分がよみがえりであること、いのちであることを表すために、あえて生きているうちにラザロの病を癒さず、死から蘇らせたのです。
イエスの愛はいつも分かりやすい形で表されるわけではありません。イエスの愛、それは、私たちに最善なものを与えます。難しいのは、神が考える私たちにとっての最善は、必ずしも私たちの視点から最善と見えるわけではない、ということです。イエスはマルタとマリアにも最善なものを与えられました。それはイエスの栄光が明らかになること、そしてイエスがよみがえりであり、いのちであることを明らかにすることでした。
マルタとマリアと同じように、弟子たちもイエスのことを誤解していました。しかし、イエスは彼らにもご自分の栄光を表すために、遅れてラザロの所へ行きました。「あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。」(ヨハネ11章15節)イエスがよみがえりであり、いのちであることを弟子たちに知らせるために、ラザロを癒されなかったのです。
私たちが神の御心を完全に理解することはできません。神が何故、このような病気が世界中に広まることをお許しになっているのかも分かりません。しかし、最終的には神の栄光を表すためであることだけは確かです。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
私の息子は最近、食べ物の好き嫌いが増えてきました。ブロッコリーを食べたくない、アスパラガスを食べたくない、玉ねぎを食べたくないと言います。甘いものや、塩辛いものだけを食べたいと言います。しかし、親として、体に良い物を食べさせないといけないことを知っているので、いやだと言われても、きちんと食べるように教えます。これは同じような愛です。愛は最善なものを与えることです。美味しくないかもしれません。その時自分が望んでいたものではないかもしれないし、嬉しいと感じないかもしれません。
今の難しい状況を通して、希望を持ち、愛されていることを感じることは難しいかもしれません。しかし、この試み、孤独感、絶望、困難を通して、イエスはあなたを愛されています。状況が難しければ難しいほど信じ難いかもしれませんが、どんな時もイエスはあなたに愛を施されています。
マルタとマリア、そして弟子たちはこの経験を通して、イエスの栄光を目撃し、イエスがよみがえりであること、いのちであること知りました。イエスが「私はよみがえりであり、いのちである」と宣言されてから、イエスはマルタに尋ねました。「この事を信じていますか?」これは、イエスを通して、復活、永遠の命が可能であることを信じていますか、ということも意味しています。マルタは答えます。「はい、主よ。私は、あなたが、世に来られる神の子、キリストである、と信じております。」ここでマルタはイエスがよみがえりであり、いのちであることを告白しました。イエスを通して
本日は復活祭です。ラザロの復活の奇跡はイエスの復活を指し示します。イエスは十字架の上での死から3日後によみがえられました。死からの復活があったからこそ、希望があります。キリストが死なれたままなら、葬られたままなら、希望は無いのです。キリストが死なれたままなら、罪と死は勝利した事になります。しかし、ご存知のようにイエスが勝利者です。イエスは死をも打ち破りました。だから、私たちには希望があるのです。イエスが死なれ、その後復活したように、イエスの事を信じる人は死から復活します。イエスが生きるから私たちも生きられる。イエスは私たちの模範であり、証しであり、希望の印でもあります。
死は怖い現実であります。しかし、クリスチャンにとってはそうではありません。キリストは死からよみがえられ、死を打ち破りました。死はもうない。キリストの復活を通して、死に対しての私たちの態度が聖書にこう表現されています。「死は勝利にのまれた」「死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。お前のとげはどこにあるのか。」
イエスはこの試練の時を通して、あなたに何を語りかけているでしょうか。心を開いて、イエスのみ声に耳を傾けましょう。イエスはあなたのことを心から愛し、最善なものをお与えになりたいと思っておられます。それは命です。永遠の命。今の状況は一時的です。しかしイエスの愛は永遠です。心をしずめて、イエスを心に留めましょう。