日曜メッセージ:「御霊によって歩む」Walking By The Spirit
聖書箇所:ローマ8章5節~8節
タイトル:御霊によって歩む
皆様、おはようございます。
私はエクササイズを続けることが中々できません。最初はいつも燃えていて、体重を減らすぞ、筋肉をつけるぞと決心しても、二、三週間経つといつの間にか、いつもの生活に戻っています。皆様も同じような経験されたことはあるでしょうか?エクササイズをするはずなのに、今日は疲れているから休む、とか、他にやることがあるから休むとか。新しいダイエットを始めると、最初は燃えていて、良い食生活をしますが、油断をすると、あっという間に元に戻ってしまう。私たちは継続してやりたいことがあったとしても、中々できないのです。最初は献身的であっても、熱心であっても、油断をしたり、失敗や挫折をしてしまいます。
私たちの霊的な生活、信仰生活も同じです。信仰生活の中でも同じような問題があります。聖書を毎日読みたい。もっと祈りたい。最初は熱い意思があっても、継続することは難しいものです。善を行いたい、良いことをしたいという気持ちを持っていても、恥ずかしいとか、疲れたとか、誘惑に負けたり、罪を犯したりします。
三つのポイントです。1)肉と御霊の葛藤。2)御霊の思いに従う。3)御霊によって進む
1)肉と御霊の葛藤。新しいクリスチャンからよく聞く悩みがあります。クリスチャンになってから罪が許され解放され、新しく造られました。しかし、なぜ私はまだ罪を犯してしまうのですか?
台所におまんじゅうがあるとしましょう。夜の8時です。夕食は済みましたが、ちょっとお腹が空き始めました。今日は甘い物を食べていないので、食べても良いかなと思います。しかし、夜の8時だから今食べると太っちゃう。どうしたら良いのか悩みます。皆さんも経験があると思います。実は、この例は私が先日直面したジレンマでした。私たちはいつも頭の中で、物事のプラス面とマイナス面を検討します。自分にとって益になるのか、損になるのか、良いことなのか、悪いことなのか、細かく考えますよね。
肉は誘惑に弱いです。イエスが逮捕される前、弟子たちと共にゲツセマネという場所に行きました。イエスは十字架の苦しみが近づいていることをご存知だったので、弟子たちと共に祈っていました。イエスは弟子たちに言いました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」イエスは一人で少し離れた場所へ祈りに行き、弟子たちの場所に戻りました。しかし、弟子たちは眠っていました。これが3回も続きました。そして、イエスは弟子たちに言いました。マタイ26章41節「霊は燃えていても肉は弱いのです。」弟子たちは祈る意志を持っていましたが、肉の弱さに簡単に負けてしまいました。
私たちの中では常に肉と御霊の葛藤が行われています。私たちは神に反抗する性質を持っています。私たちの自然な性質は神を疑い、神に逆らいます。罪という物は私たちの内側に存在しています。残念ながら、私たちはこのような性質から逃れること、去ることはできません。人間イコール神に反抗する性質。
聖書にはこの現実が記されています。善を行いたい、良い人になりたいと思っていても悪を行なってしまう。自分がしたくないことをしてしまう。善を中々実行することができない。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んていることを行なってしまう。ローマ7章19節「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」パウロはローマ7章の中で、この内側にある葛藤を描いています。パウロの結論は、人間はみじめであり、絶望であることです。ローマ7章24節 「 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」しかし、イエスキリストには救いがあります。助けがあります。解放があります。自由があります。
罪から解放された人、肉から解放された人として、キリスト者は肉によって歩むのでのなく、御霊によって歩みます。実際人は、生きている間、肉・体から逃れることはできません。死ぬまで、罪と誘惑に攻められます。しかし、クリスチャンは罪に縛られてはいません。クリスチャンはキリストにより、新しい歩み、新しい生き方を迎えます。キリスト者は御霊の導きに従います。キリスト者は肉の欲望を満たしません。どうしたら、御霊によって歩む人になれるのでしょうか?
2)御霊の思いに従う。あなたは罪と死から解放され、自由になりました。解放されたあと、これからどう歩み、前に進んだら良いのでしょうか?想像してみてください。誰かが罪を犯して何年か刑務所に入りました。そして、ついに刑務所から出ました。この人には二つの選択肢があります。一つ目は過去の生き方が間違っていたことを認めて、新しい人生を迎えること。二つ目は過去と同じような生き方をすること。
キリスト者も似ています。もう罪から解放されたから、自由になったから、なんでもありではありませんね。新しい生き方、新しい歩み方を迎えなければいけません。これは、御霊による歩み、御霊に従う歩み、御霊によって進むことを表します。ローマ8章5節「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。」
罪から解放された人は、肉に従いません。罪から解放された人は御霊に従います。御霊に属する、とは、御霊の導きに従うことです。「私は御霊によって生きる」、「イエスの導きに従う」という姿勢を表します。神を喜ばせるライフスタイル、生き方です。肉と御霊は真逆です。肉と御霊は逆らっています。しかし、キリスト者は「私は御霊に属する」と決心して、肉を抑えます。
御霊に従う歩み方は最後のポイントで学びますが、その前に、肉に従った結果と御霊に従った結果の違いを学びましょう。肉に従い、肉に属して生きると、どうなるのでしょうか?逆に、御霊に従って、御霊に属して生きるとどうなるのでしょうか?ローマ8章6節を見てみましょう。「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」肉に従うライフスタイルは死をもたらします。悪い結果をもたらします。神を喜ばすことはできません。他の箇所でも、肉に従う人は神の国を相続することができないと記されています。しかし、御霊の思いはいのちと平安である。御霊に従って、御霊に属する人は祝福を経験します。喜びを経験します。いのちを与えられます。安らぎを経験します。
3)御霊によって進む。御霊によって歩むことが大切なことはわかりました。では具体的にはどうやって歩めば良いのでしょうか。御霊によって進むことはいつも簡単ではありません。御霊によって歩むためには自分の力に頼ったらいけません。神の力が必要です。どうしたら、御霊によって進むことができるのか、四つの実践の方法を学びましょう。
一つ目は、古い自分、罪に縛られていた自分はもう存在せず、キリストにあって新しくされ、生きている真実を心に留めることです。ローマ6章11節「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」自分はキリストにあって新しく造られた、新しいいのちが与えられた、この素晴らしい真実を改めて思い起こし、常に心に留めましょう。
二つ目は肉と御霊の葛藤があることを把握しましょう。頭の中、心の中で葛藤を感じることは良いことです。実はこれは、霊的に健康なサインです。心の中で葛藤していない人は、簡単に誘惑に負けたり、何も考えず肉のわざを行なってしまいます。それに比べて、心の中で葛藤している人は、神の御心を探っている人です。神を喜ばせたいという気持ちを持っている人です。その葛藤の中で、どうしたら御霊の思いに従い、御霊によって進むことができるのか、それを考えることに自分の焦点を当て続けることが大切です。
肉が働いている時、それは認識することが大切です。たいてい、最初の反応は肉です。個人的な例えです。子供がガラスを割ってしまったら、ほとんどの人の最初の反応はコラッと怒ることでしょう。誰かに傷つく事を言われました。私たちの咄嗟の反応は、その人の悪口を言ったり、反論してその人を傷つけることかもしれません。夫婦喧嘩で言い合いになりました。最初の反応は、怒ったり、言い返す事でしょう。肉の思いというのはいつも傷つけること、損害をもたらすことです。しかし、より優れた方法があります。それは肉ではなく、御霊です。肉の思いを抑え、御霊の思いを育てましょう。
三つ目は罪という存在の恐ろしさ、ひどさをはっきりと把握する事です。罪は神を害します。罪は神を侮辱します。罪は汚すものです。罪は人を傷つけるものです。罪はどれほどひどいものなのでしょうか?イエスは教えられました。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。」「もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。」これは誇張表現ですけれでも、罪の重さが伝わりますね。
四つ目は自分の体を神のために捧げます。日本には何人かの元ヤクザの牧師がいますね。アメリカにも元ギャング、元犯罪者の人でクリスチャンになった人がたくさんいます。かつて、暴力や混乱のために生きていた人が神の御国の働きのために尽くすようになった変化を目撃すると感動します。苦しみ・危害・不義をもたらす手足、悪口を吐く、迷惑をかける生き方をやめ、イエスの弟子として歩む。
ローマ6章13節「また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」神があなたに授けられた手足、体、賜物、アビリティーなどを義の道具として捧げましょう。肉の欲望を満たすためではなく、神を喜ばせるために、神に栄光を表すために自分の手足を捧げます。