日曜メッセージ:「罪からの解放」Freedom From Sin
タイトル:「罪からの解放」
聖書箇所:ローマ人への手紙8章1節~4節
私が小さい頃、私の父は双眼鏡を持っていました。この双眼鏡は高価な物で、父は大切にしていました。私は触らないように言われていましたが、私はその双眼鏡を使いたくてたまらなくて、父がいない時に手にとってしまいました。私は小さかったので、双眼鏡の使い方が分からず、不注意で、双眼鏡を壊してしまいました。しかし私は父に双眼鏡を壊してしまったことを中々言うことが出来ませんでした。
1日経ちました。2日経ちました。しかし、私は怖くて怖くて何も言うことができませんでした。そしてある日、父が私に尋ねました。「私の双眼鏡がどこにあるか知っているか?」父は私が双眼鏡を持っていたことは知っていたでしょう。私は何も言うことが出来ず、突然泣き始めました。「I’m sorry, I’m sorry」と何回も泣きながら言いました。私は父に怒られると思いました。しかし、父はただ「It’s okay」と慰めの言葉をかけてくれました。
誰でも似たような経験があるかもしれません。悪いことをしてしまった。言葉で人を傷つけてしまった。長い間、頭のどこかに残っていて、自分を苦しめている苦い思い出はないでしょうか。罪悪感、恥、後悔…
しかし今日、皆様に伝えたい大事なことは、「イエスはあなたを罪から解放された」ことです。イエスの内に立つ人にやましいことはありません。イエスを信じている人は恥を持つことはありません。言葉で言うのは簡単ですよね。しかし今日私たち一人一人がこの事実を心で完全に理解できるよう、御言葉を通して学びましょう。
イエスはあなたを罪と死から解放されました。聖書によると、私たち一人一人は罪という物に縛られています。同じローマ人の手紙に、私たちは罪の奴隷であることが記されています。罪と聞いて私たちがまず最初にイメージするのは、法律や道徳に反する行為ですが、聖書がいう罪は、私たち人間の、神に敵対する性質です。
分かりやすく言うと、聖書のいう罪は、私たちが神から離れ、神に従わず、反抗的に生きること、そむくこと、神を無視して自分本位で生きること。この私たちが生まれ持った罪を原罪と言います。その内側にある敵対する性質は、様々な形で、罪の行為として現れます。そして主イエスによると、罪は行為だけでなく、頭の中の考えも含みます。そうすると、私たちは罪から完全に逃げること、逃れることはできません。頭の中、心の中に持っている考えが完璧な人は誰もいないからです。
一般的に罪と言えば、人を傷つけたり、物を盗んだりするイメージですが、今日私たちが学ぶ罪というのは神を害する行為です。水平線と垂直線をイメージしましょう。罪は人を傷つけたり、人との関係など、横にいる人を害しますが、上にいる神を害する罪があることを忘れてはいけません。
そして、何と罪からくる報酬は死です。罪を犯すと、罰があります。罪は神を害する行為で、それに対して神が定められた罰が永遠の死です。ローマ人6章23節「罪の報酬は死です。」これは、悲惨な現実です。悲惨な状況です。絶望です。しかし、そこで話は終わりません。「罪の報酬は死です。」しかし、次に「しかし」と言う言葉が記されています。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私たちは絶望しなくても良いのです。なぜなら、神は私たちにギフト、賜物をくださった。その賜物とは、私たちが信じているキリストイエスにある永遠の命だからです。
罪というものは、私たちの心の重荷になります。過去に犯した過ち、失敗、罪をまだ抱えていないでしょうか?罪を抱えると肉体的、精神的、霊的に疲れます。罪悪感は深まるばかり、そして、その過ちを思い出すほど、心が苦しい。その重荷を降ろし、解放され安らぎが欲しい。神は御言葉を通してあなたの過ちを明らかにし、そこから自由にされようとしておられます。
ローマ人8章1節「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」キリスト者は罪に定められることはありません。罪の許し、罪からの解放は、イエスキリストを通してしか、実現されません。
神の許しは神の素晴らしい御技です。神の赦しは完全です。神の許しは豊かです。神はどのような罪でも、それが背き、罪、とがであっても許してくださいます。この許しを実現してくださったのは主イエスキリストのゆえです。主イエスが十字架の上で、私たちの罰を替わりに受け、犠牲になってくださったからこそ、その贖いの血により、私たちの罪は洗い清められ、赦され、私たちは雪のように真っ白になりました。もう私たちの罪は問われません。私たちは旧約聖書の時代のように、どこかの神殿に行き、生贄を捧げる必要はもうありません。生贄の捧げ物は、もうすでに私たちのために捧げられたのです。それが私たちの主、イエスキリストです。
神には一人子しかいません。その一人子は唯一なので、特別です。自分の子供を世のための犠牲として送り出す事を想像して見てください。想像できませんね。なぜ神がご自分の一人子を与えたのか、簡単な答えはありませんが、このことは明確です。神は、ご自分の一人子を与えるほどに、私たちのことを愛してくださっているという事です。これがアガペーの愛です。
第二コリント5章21節「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」イエスは無罪でした。しかし、イエスは自ら逮捕され、十字架に掛かりました。イエスは十字架の死刑を受けなくてもよかったのです。
私たちが誰かに傷つけられたら、その人を許すことはなかなかできませんよね。口ではもういいよ、と言っても、心の中に引っかかって、根に持ってしまうことはよくあります。夫婦の間でケンカをすると、過去の過ちを引き出すことはありますか?「3年前のあの時、ひどいことを言ったでしょ?忘れてないよ」しかし、神の許しは、本当の許しです。完全な許しです。神は私たちに対して決して恨みをお持ちにならないし、神が一度許された罪は完全に清算されます。一から新しくスタートできるようなものです。
私たちはまず罪人であることを認め、神に対して罪を明確にします。私たちは罪に関して適当な態度を持ったらいけません。罪は神を害する行為です。その罪を認め、私たちは謙遜な態度を持ち、神にその罪を語らなければいけません。そして次に、私たちはその罪を隠しません。罪を隠すこととは、言い訳を言ったり、責任を取らないことです。誰かが私を怒らせた、誰かが私を誘惑させたではなく、自分で責任を取り、その罪を明らかにします。神は既に私たちの本心や失敗をご存知なのですから。
私たちは罪を認め、罪を隠しません。そして、私たちは罪を告白します。 心の中に秘めていたことを,ありのままに神に打ち明けます。「神様、今日私はこんな罪を犯してしまいました。ごめんなさい。」「神様、あなた背きました。人を傷つけてしまいました。ごめんなさい。」
簡単にいうとこれが告白です。告白するには罪を語らなければいけません。そして、後悔と謝る気持ちを示します。許しは主イエスキリストの犠牲のゆえに達成されます。主イエスが流された血のゆえに私たちの罪は贖われます。それを心にしっかりと留め、感謝しつつ、罪を告白しましょう。