日曜メッセージ:「あなたも行って、同じようにしなさい」ルカ10章25節〜37節
タイトル:「あなたも行って、同じようにしなさい」
聖書箇所:ルカ10章25節~37節
ルカによる福音書の例え話を通して、「聞きなさい!」というシリーズを勉強しています。今日の聖書箇所は皆様もよくご存知である箇所だと思いますが、御言葉を「聞く」ことにどう関係しているのでしょうか?今日は神の御言葉を聞く大切さ、そして実践する大切さを学びたいと思います。聞くのは簡単ですよね。しかし、私たちの信仰にとって、御言葉を実践することは、きわめて重要です。
御言葉を実践する順序を紹介します。まず最初に、御言葉を聞きます。御言葉を開きます。その次にその御言葉を忍耐を持って心に留めます。そして最後に、その御言葉を行動に移します。心に留まっている御言葉を発揮させます。手を用いて、良い行動を行います。足を用いて、宣教に出ます。口を用いて、人を励まし、良い知らせを告げます。私たちは多くの場合、心と行動が途切れてしまっています。思っているのに、できない、言いたいのに言えない、これは「ミッションギャップ」、「適用ギャップ」と言われます。良いサマリヤ人の例え話は、聖書の中で最も大切な戒めの、実践方法を示しています。
ある立法の専門家がイエスのことを試すためにイエスに尋ねました。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」立法の専門家は聖書のことをよく知っていて、聖書の多くの部分を暗記していたでしょう。イエスは質問に答えるために、質問で返しました。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」彼は答えました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
立法の専門家が言った御言葉は、申命記6章に記されているシェマー、そしてレビ記19章に記されている代表的な教えです。神を愛する戒めと、隣人を愛する戒めは繋がっています。神を愛することで、私たちは隣人を愛することができるからです。神を愛する戒めは、全てを尽くして神を愛することを教えています。心、いのち、力、知性は人全体、人そのものを表していますよね。
ある人が、エルサレムからエリコへの道を歩いていました。彼は突然、強盗に襲われました。エルサレムからエリコの道は当時、危険な道として知られていました。この道の一部は流血通りと名付けられていたほどでした。この道は洞窟や崖が多く、曲がりくねった道ばかりで、泥棒にとっては隠れやすい道だったのです。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去りました。
ルカ10章31節「たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。」祭司は大怪我をした人を見て、道の反対側を通り過ぎました。ユダヤ教の祭司はエルサレムにあった神殿に勤めていました。ユダヤ教の律法によると、死体は不浄に思われていて、祭司は自分の純潔を守るために、彼のこと無視しました。
次に、レビ人が道を下って来ました。ルカ10章32節「同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」彼は、祭司と違って、近くに来て彼を見たと記されています。レビ人は祭司を手伝う役割を持っていた人です。レビ人は彼を助けようか助けまいか迷ったかもしれません。しかし、残念ながら、レビ人も自分の純潔を守りたかったので、彼から去りました。殴りつけられた人は道に放っておかれました。祭司とレビ人にとっての彼らの宗教的な義務が優先されました。怪我人を助けるよりも、純潔を守る必要があったので、彼らは何もしませんでした。
ところが、サマリア人がその人のところに来ました。ルカ10章33節「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。」イエスの例え話を聞いていた人は「あれっ?」と思ったかもしれません。ユダヤ人はサマリア人のことを非常に嫌っていました。ユダヤ人にとって、サマリア人は異端者でありました。サマリヤ人は自分たちの神殿とトーラ(ユダヤ教の律法)を持っていました。サマリア人が異邦人の神を礼拝しだして、ユダヤ人とサマリア人の間に大きな分裂が生まれたのです。殴りつけられた人はおそらくユダヤ人でした。このユダヤ人を助けた人はサマリア人。人々は違和感を感じたでしょう。あなたにとって違和感を感じる「隣人」はいるでしょうか?違う人種の人でしょうか?性格が合わない人でしょうか?聖書によると、その人こそがあなたの隣人なのです。
サマリヤ人が怪我人に対して取った行動は、祭司やレビ人と全然違いますね。彼は怪我人を見て、彼がユダヤ人であることを気にせず、助けました。サマリヤ人は傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱しました。オリーブ油とぶどう酒は傷口を消毒するために、清くするために。サマリア人は傷を包帯するために、自分の服をびりっと破ったでしょう。そして、怪我人を家畜に乗せて、自分は歩いて行ったのでしょう。
そして、怪我人を宿屋に連れて行き、泊まって面倒を見ました。そして、次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』サマリヤ人は怪我人が回復するまで、お金を出して助けると言いました。デナリ2枚は当時の二日間分の給料でした。結構な金額ですね。サマリヤ人は深いあわれみと、必要を超える愛を表しました。見知らぬ人、それも自分たちを嫌い、批判する人のために、時間の犠牲、金銭的な犠牲、エネルギーの犠牲を払いました。これは素晴らしい模範です。
私が未熟な神学生だった時、私はイリノイ州にある教会で働いていました。ある日曜日の朝、私は教会の駐車場に車を停め、教会に入る時、お年寄りの女性に声を掛けられました。よく覚えていませんが、彼女は困っていて、ホテルに泊まるためにお金が必要だと、教会を訪ねて来たのです。その金額は30ドルか40ドルぐらいでした。正直に言いますが、この人は本当の事を言っているのかな?と疑いの気持ちがありました。実は、その日曜日、私は礼拝の説教の担当で、経験もまだ少なく、すごく緊張していて急いでました。私は彼女に「私は急いでいるので、他の教会に行ってみてください」と言いました。今考えると、お金をあげなくても、座って話を聞いてあげて、祈ることはできたと、心から後悔しています。
神は私たち一人一人に、定期的に機会を与えてくださいます。神の愛を表す機会。人を助ける機会。人を励ます機会。人に神の御言葉を分かち合える機会。人にイエスの救いの福音を述べ伝える機会。その機会が来たときには、しっかりと掴まなければいけません。なぜなら、その機会はすぐに無くなってしまうからです。先日皆様とともに学んだ、種まきの例え話もそうです。機会がある時に、種をまかないと、いつまでたっても実は結ばれません。神が機会を与えてくださる時、二つ大切なことを覚える必要があります。
一つ目は当然ですが、その機会が神から与えられていることを意識しなければいけません。「これは偶然ではなく、神のご計画により私に今、この人を助けるチャンスを与えてくださっている」と自分に気づかせます。二つ目は愛を行動に移すことです。最初に道を下った祭司は逃げました。次に道を下ったレビ人は残念だな~、かわいそうだな~と思っただけでした。しかし、サマリヤ人はその機会を掴み、愛を行動に移しました。
神が私たちに与えてくださった愛は抽象的でありません。神は私たち一人一人に、具体的に愛を表してくださいました。具体的に祝福と恵を注がれ、愛を行動で表してくださいました。イエスは私たちの間に住まわれ、私たちの救いのために命を捧げられました。同じように、私たちが持っている愛、イエスから教えられている愛は概念ではありません。私たちは神の愛を行動で表します。
この箇所では、愛の行動はサマリヤ人のことを助けることでしたが、機会によってその行動は変わってくるでしょう。自分の状況、自分の賜物、自分の働きを意識しましょう。そして、神の愛を表すことができる機会が与えられたら、迷わず、行動に移しましょう。先ほど、心と手の間にミッションギャップというものがあるとお話しました。み言葉を聞いても、何も変化をもたらさない。み言葉を聞いても、行動に移さない。そのようなミッションギャプを超越するためには信仰が必要です。