日曜メッセージ:「神の前の豊かさ」ルカ12章13節〜21節
タイトル:神の前の豊かさ
聖書箇所:ルカ12章13節~21節
私が神学校を卒業してから、日本に一旦帰国しました。私たちはシカゴから日本に引っ越すために、ほとんどの家具や持ち物を売りましたが、スーツケース六つほどの荷物を飛行機で持って帰って来ました。ご存知のように、預けられる荷物には制限があります。スーツケースの数には問題はありませんでしたが、スーツケースの重さに問題があり、チェックインカウンターでスーツケースを開いて、空港まで見送りに来てくれた友達に謝りながら、荷物を取り出しました。
あなたは天国に召される時、自分の所有物を一緒に持っていくことはできるでしょうか?天国に入るために、入場料は必要なのでしょうか?スーツケースはいくつ持って入ることができるのでしょうか?おかしい質問ですよね。しかし実際、自分の日常生活を考えると、仮の住まいと言われるこの世での私たちの生き方はどうでしょうか?
私たちの世の中は、幸せの探求や、物質主義に大きく影響されています。全く影響されていない人は一人もいないでしょう。今日の箇所を通して、物や富、幸せを神の視点から見たいと思います。今日のメッセージは聞きづらいかもしれません。しかし、より深い信仰を持つためには今日のテーマは避けられません。み言葉は、少しずつですが私たちの価値観や優先順位に変化をもたらします。「私は満足していない」、「私はハッピーではない」という感じている方がいらっしゃるかもしれません。まことの満足感、まことの幸せ、まことの富は、神にあるということを今日ともに学びましょう。
三つのポイントです。1)貪欲に気をつける。2)「私の」メンタリティー。3)神に対して富む者となる
1)貪欲に気をつける。今日の箇所によると、誰かがイエスにこう尋ねます。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」この兄弟の願いの詳細は不明ですが、問題は明らかです。財産を公平に分けてくれないから、この兄弟に争いがおきてしまいました。遺産争いは現代でも大きな問題ですね。
イエスは言われました。ルカ12章15節「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」貪欲に気をつけなさい。貪欲を警戒しなさい。イエスは二回も繰り返して、人々に注意しています。貪欲は人の肉の働きであります。「貪欲」とは次々と欲を出し、満足しないこと、欲張りであることを表します。自分の心にある欲をチェックしなければ、その欲はどんどんふくらんでいき、考えや思いをどんどん支配していきます。具体的には、金銭的な欲、物質的な欲、幸せへの欲などがありますよね。
キリスト者として、貪欲は気をつけるべき事柄です。聖書全体を通して、貪欲に関して警告しています。十戒の中でも「隣人のものを欲してならない」と記されています。箴言の中にもたくさんの例があります。箴言28章25節「欲の深い人は争いを引き起こす。 しかし、主に拠り頼む人は豊かにされる。」聖書は何度も欲に対する注意を語ります。
人によって欲は違う形で現れます。子供が何か欲しい時、すぐわかりますよね。子供は素直なので、何かを見て、欲しいと思ったら、泣いたり叫んだり、全てを尽くして親にアピールします。その割に、もっと良いものを見たらあっさりと忘れたりします。残念ながら、大人になってもその欲しい欲は少し複雑になるだけで、変わりませんよね。会社での昇進、新しい車、お金。
私たちの考え方が、世の中にどれほど影響されているか考えたことはあるでしょうか?広告、コマーシャルは、あなたが持っていないことを指摘し、その必要を満たす商品やサービスを売り込みます。「あなたはこれを持っていると、これを買うと、もっと幸せになる、満足する」。私たちはこのような方程式に、簡単に影響を受けてしまいます。
物やお金を得ることで幸福になる、と勘違いし、無意識に物やお金に依存してしまいます。いのちの価値、いのちの目的までも、物に頼り、何かを持っていなければ、私は敗北者であり、ハッピーになることができない、と思ってしまう。あの人のように成功していないから、人生に失敗したと感じる。しかし、命は財産にあるのではありません。命は神にあるのです。
ものに依存してしまうと、ものが神のような存在になってしまい、創造主ではなく、創造物を礼拝するように誘惑されてしまいます。神を求める、神を探る姿勢を持ちましょう。鹿が谷川の流れを慕いあえぐよう、命を授けるお方、全ての祝福と恵みを授けるお方を慕いあえぎましょう。
2)「私の」メンタリティー。イエスの例え話によると、ある金持ちの畑が豊作になり、彼は新しい倉を建てて、全ての穀物や財産をしまうことにした。彼が言ったことをお読みしますが、彼の言葉と言い方に注目してみましょう。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」
気づかれたでしょうか?彼は何度も「私の」と言いました。私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産。私、私、私。全て私のものと言っていますね。「私の」メンタリティー、自己中心的な考え方です。神の摂理と祝福により、この人には豊作が与えられました。全ての所有物と財産は神に授けられたもので、この人は神の恵みにより祝福されました。それを完全に無視し、彼は全て自分が得たものと勘違いしています。
神は恵み深いお方なので、私たちを小さく大きく祝福してくださいます。お金を持つこと、財産を持つこと、所有物を持つことも、神から与えられた祝福です。私たちは神の知恵により、与えられたお金を貯金したり、投資したり、経済的に安定することができるように運用します。ではなぜ例え話の人は神を喜ばせなかったのでしょうか?彼の態度と考え方を見てみましょう。ルカ12章19節「そして、自分のたましいにこう言おう。わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」
二つ注目するべきことがあります。一つ目は彼は自分のたましいに語ってこれからどうするのか、を自分で決めました。神への感謝の言葉はありません。神にこれからどう行動したら良いのか、知恵と導きを願っていません。どうしたら神に栄光を帰することができるのかも考えません。彼は自分のたましいに語るだけでした。二つ目は彼がこれからどうするのかという決断です。彼は自分のために生きる、自分がやりたいことをやることにしました。私の倉、私の穀物、私の財産なので、私は私がやりたいことをする。
これは聖書的な考え方ではありません。聖書によると神は与えるお方であり、取られるお方です。「私の」メンタリティーを「神の」メンタリティーに変えなければいけません。私の家ではなく、神から与えられた神の家。私の車ではなく、神の車。私の所有物ではなく、神の所有物です。所有物を「神の」メンタリティーに変えると、神の知恵と導きによりその所有物をどう用いたら良いのかが、明らかになってきます。神の御心に沿うように、自分の所有物を扱う。自分だけでなく、人の益のために、祝福するために、助けるために、そして神に栄光を帰することができるように。
そして、私の所有物が神の物であることが分かると、所有物から解放されます。貪欲のとらわれ、欲しい気持ちと足りない気持ちから自由になります。旧約聖書のヨブは仕事も財産も家族も全てを失いました。しかし、ヨブは神の摂理を認め、神の御名を賛美しました。ヨブ1章21節「私は裸で母の胎から出て来た。 また裸でかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」
3)神に対して富む者となる。ルカ12章20節「しかし、神は彼に言われた。愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」「愚か者」という言葉は、きつい言葉です。神は彼に、君はいつ死んでもおかしくない、君は今夜命を失ってもおかしくないと、そして君が亡くなると、蓄えたものはどうなるのかと語っておられます。私たちの生涯は本当に短いです。私は子供成長を見ると、人生がどれほど早く過ぎるのか自覚するようになりました。
私たちの体はもろく、いつ病気にかかるか分かりません。いつ事故や惨事に命を失うかもしれません。私が、あなたが今日、亡くなってしまったら、人は私たちのことをどう思うでしょうか?新聞の死亡欄に何と記されるのでしょうか?考えさせられます。
あなたは神に頂いた、そのいのちをどう生かしておられるでしょうか?自分のために、地上に宝を蓄えているでしょうか?もしくは天に宝を蓄えているでしょうか?地上の宝は一時的です。所有物は時間が経つとさびて壊れてしまいます。地上の宝は一時的な喜び、幸せです。逆に、天の宝はどうでしょうか?天の宝は永遠の価値を持ち、神は天の宝を喜ばれます。自分のために蓄えるよりも、神に対して蓄えると、神のみ前で富む者とされるのです。
「天の宝を追求することはどういうことですか?」という疑問があるかもしれません。それは、一言で言えば神との関係です。人のいのちは所有物ではなく、神との関係にあるのです。神はあなたからお金や所有物を求めておられません。神はあなたの心を求めておられます。あなたが信仰を持つと、あなたが神のことを信頼すると、あなたが神のことを賛美すると、そして神のために働くと、天の宝が蓄えられます。先週学んだ、良いサマリヤ人の例え話を覚えていらっしゃるでしょうか?サマリヤ人の良い行為は天の宝の良い例です。人を救う、助ける、励ますことも天の宝、分裂ではなく教会の一致を保つことも天の宝です。