日曜メッセージ:「聖なるお方」"God's Holiness"

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タイトル:聖なるお方

聖書箇所:イザヤ書6章1節~7節

私の家族はよく動物園に行きます。ホノルル動物園にはたくさん種類の動物がいますね。見る動物によって子供たちは違う反応するのが面白いです。息子はヘビを見ると、一言「yuck」、ぞうを見ると「wow」、サルを見ると「yay」、ライオンを見ると「haa~」と言います。英語が強くなりすぎて、一言目はいつも英語で出てしまいます。彼はライオンも好きで、見ると目が大きくなり、すごいけれど怖いというリアクションです。

今日は続けて、「神の美しさ」のメッセージシリーズを勉強します。今日のメッセージのタイトルは「聖なるお方」です。何かが美しいとき、心に深い感動を呼び起こします。「きれいだな~」と思い心がうたれますよね。しかし、神の美しさは気楽な「きれいだな~」を呼び起こすことではなく、深い敬いと恐れも呼び起こします。神は私たちの父であり、私たちは神と親密な関係を育むように教えられていますが、同時に、神は聖なるお方であり恐れ敬うべきです。

今日、二つのことを学びたいと思います。一つ目は神は聖なるお方である。二つ目は神のように聖なる者となる。

1)神は聖なるお方。英語では「God’s Holiness」です。神は神聖なお方です。神が聖なるお方であることは一体どういう意味なのでしょうか?辞書によると神聖とは、「けがれなく清らかで尊いこと」と書いてあります。神の神聖さは様々な意味があります。皆様は聖なる神をどのようにイメージするのでしょうか?完璧、道徳的に正しい、触れてはならない。

神が聖なるお方であることを測り知ることは簡単ではありませんが、太陽を想像してみましょう。太陽は美しいです。他に同じものはありません。太陽はパワフルです。光を照らし、エネルギーと熱を発します。太陽は命の源です。太陽のエネルギーによって生物は生き続けることができます。太陽に近づくほど、光と熱は強くなります。

これは神の神聖さのイメージに似ているかもしれません。神の神聖さは美しく、パワフルであり、明るいです。聖書の中で神がご自身を表される時、人は恐れたり、目を伏せたり、うつぶせになったりしました。なぜでしょうか?いくつかのエピソードを通して、神が聖なるお方であることを学びましょう。

旧約聖書の中で神はどのようにご自分を現されたのでしょうか?一つ目のエピソードは出エジプト3章、神は火の芝を通してモーゼに現れました。神はモーゼに近寄らないように、そして履き物を脱ぐように命じられました。なぜなら、モーゼが立っている場所は聖なる地であったからです。そして、神がご自分のことを明らかにされると、モーゼは神を恐れ、顔を隠しました。神は聖なるお方なので、モーゼは神の御前で自分の顔を隠す必要があったのです。

二つ目のエピソードは本日の箇所です。愛されていたウジヤ王が亡くなった時、国は王の死を悲しみました。そして国にとっての危機が始まりましたが、その時に、預言者であったイザヤはビジョン、まぼろしを通して、聖なる神の栄光を見ました。イザヤ6章1節~3節「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の。 その栄光は全地に満ちる。その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」

神は預言者であったイザヤにご自分を現されました。旧約聖書の時代、神はエルサレムの神殿の中にご臨在されていました。人々は神殿に集って、ささげ物を捧げたり、様々な儀式を行っていました。イスラエル人にとって神殿は聖なる場所です。神殿に入ることは強く禁じられていました。

神殿に入ることができる人は選ばれた祭司だけでした。先ほどのウジヤというイスラエルの王は16歳の時に王になりました。彼は主の目にかなうことを行い、神を忠実に敬いました。しかし、彼が強くなるにつれ、彼の心は高ぶってしまい、神の信頼を裏切り、神の律法に従わなくなっていきました。彼は祭司しか入ってはいけない神殿に入り込み、香をたいたので、神に裁かれてしまいました。

神は聖なるお方なので、神がご臨在されている神殿も、聖なる場所でした。そして、年に一度、贖いの日に、大祭司(一番偉い祭司)が神殿の中でも最も聖なる場所、至聖所、垂れ幕の内側に入って、儀式が行われていました。その際に、大祭司は必ずひもを足首にまいて入っていました。なぜなら、大祭司が何かを間違ってしまって、神を怒らせたら、死んでしまう可能性があると思われていたからです。ひもがつながっていたら、祭司を引っ張り出すことができます。

イザヤの話に戻りますが、彼は神殿を満たした神を目撃しました。イザヤが実際、神殿の中にいたのか、神殿のビジョンを見たのか、ここでは明確ではありません。神は御座に着いておられました。そして、セラフィムが登場します。セラフィムは天使なのか、明確ではありませんが、彼らはイザヤと同じように顔を覆っていました。彼も聖なる神を直接見ることができませんでした。そして、彼らは礼拝を捧げました。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の。 その栄光は全地に満ちる。」聖なる、聖なる、聖なるという発言は、神が最も優れている、この上ない、ことを表しています。神は聖なるお方なので、セラフィムもイザヤも神のことを直接見ることができませんでした。そして彼らは神を恐れ敬っていました。

このエピソードの通して、神の神聖さに関して二つわかります。一つ目は、直接見ることができないほどに、神は美しく、明るい。二つ目は神はパワフルであること。セラフィムの叫び声で、敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされました。神のご臨在は権威があります。では、私たちはどのように神の御前に出たら良いのでしょうか?神は私たちの父であり、私たちは神と親密な関係を育むように教えられていますが、同時に、神は聖なるお方であり恐れ敬うようにも教えられています。

2)神のように聖なる者となる。今までのところで、神は聖なるお方であることが分かりましたね。次に考えたいのは、私たちは御言葉の中で、聖なる者となりなさいと教えられています。イザヤが聖なるお方を見た時、神のことを恐れ敬いました。イザヤ6章5節「私は言った。『ああ、私は滅んでしまう。 この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王を この目で見たのだから。』」イザヤは汚れた者として聖なるお方の御前で恐れました。イザヤは汚れていて神と直接対面することはできないことを知っていました。しかし、神は素晴らしいことを行われました。

イザヤ6章6節~7節「すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。」 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。 「見よ。これがあなたの唇に触れたので、 あなたの咎は取り除かれ、 あなたの罪も赦された。」神はセラフィムを通して、祭壇の上から取った炭をイザヤの口に触れさせ、罪を許しました。

話は変わりますが、私と子供たちは、家に帰ってすぐ手を洗わないと、妻に怒られます。そのお陰で、私と子供たちはあまり風邪をひきません。今は、除菌、サニタイズ、と言われますが、私たちが日常で触る物の中で一番汚いと言われている物はご存知でしょうか?一番汚いと言われているものは食器を洗うスポンジやおふきんです。2)シンクのハンドルや蛇口。3)歯ブラシ。4)冷蔵庫のハンドル。5)まな板。6)リモコン。7)電話。8)財布。9)スーパーのショッピングカート。10)キーボード。

現在は、新型コロナウイルスの影響で、私たちは日々触る物に気を付けています。そして、何か汚そうなものを触ると手を洗ったり、消毒しますね。ショッピングカートを触ったり、トイレのドアノブを触ったりすると汚く感じて、手を洗いたいと感じますよね。私たちは不純な物と清い物の違いを見分けるセンスを持っています。

では、私たち自身は不純なのでしょうか?それとも清いのでしょうか?考えたことはあるでしょうか?神の視点から見ると、私たち一人一人は罪を持っているので、汚れています。罪は内側にあるもので、私たちの力で解決したり、清くしたりすることはできません。そして、誰一人として完璧な人間ではなく、罪を犯しています。これは聖書の基本的な教えです。私たち罪を持っているので、汚れています。旧約聖書の時代、人々は罪があるから、許され、清められるために動物の生贄を捧げなければなりませんでした。罪の汚れを清くするために、神の御前に定期的にささげ物を捧げました。

さっきお話をしたように、贖いの日はイスラエル人にとってとても大切な儀式でした。購の日、大祭司は神殿の最も聖なる場所である、至聖所に入り、ささげ物を捧げ、イスラエルの全国民の罪のために生贄を捧げました。この儀式を通して、イスラエルの罪は許され、罪の汚れが取り除かれていました。

ではなぜ私たちは現代、同じように生贄を捧げなくても良いのでしょうか?それはイエスキリストが、私たちの罪、すべてを背負って、自らご自分の体をささげ物として捧げてくださったからです。罪の代価を払うためには、血を流さなければいけません。イエスは十字架の上で血を流され、体を犠牲にされました。ヘブル10章11節「神の御心にしたがって、イエスの体が、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」イエスの救いの御技を通して、あなたの罪は取り除かれ、あなたは清い、聖なるものとされました。

先ほどお話ししましたが、私たちは自分で自分のことを清くすることはできません。良い行為をして、自分のことを清くすることはできません。私たちは根本的に罪により汚れています。神が炭を口に触れさせて、イザヤの咎を取り除き、 罪も赦されたように、イエスの救いの御技によってのみ、私たちの咎は取り除かれ、罪も許されるのです。

そして、最後にイザヤの罪が許された後、イザヤは私は遣わせてくださいと神に願いました。イザヤ6章8節「 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」