日曜メッセージ:神のご臨在 "God's Presence"
タイトル:神の御臨在
聖書箇所:詩編27篇
今日から新しいメッセージシリーズを始めます。「神の美しさ」。皆さんも何かの美しさで心を強く打たれたこと、感動したことがあると思います。もちろん、私は妻を初めて見た時、彼女の美しさを見て、心を打たれました。ハワイは自然が美しいところです。自然の風景、力強さには感動します。日本の四季の景色も美しいですよね。
私がメインランドで青年牧師の仕事をしていた時、夏のミッショントリップで、シカゴからサウスダコタまで行き、ミッションの働きをしました。その途中、サウスダコタにある国立公園、バッドランズに寄りました。そこで見た光景は凄かったです。名前の通り、「悪い土地」・「荒地」であり、水と風の浸食でできあがった奇妙な地形の場所でした。
神に作られた被造物のすべては神の栄光を語り告げると記されています。被造物は話もせず、語りもしませんが、神のみ手のわざを告げ知らせます。私はこの光景を見た時、神の栄光が高らかに告げられている気がしました。それは心に残る体験でした。皆さんもきっと同じような経験があると思います。
神は美しいお方。神は麗しいお方。美しいお花、美しい景色、美しい絵と言う表現はよく聞きます。私たちが美しいと思う時は、視覚的・聴覚的にきれいで心をうつ、心に深い感動を呼び起こす時です。私たちは日々美しい絵や光景を見て、感動します。では、神を見上げ、神の素晴らしさ、偉大さ、神の美しさを見て、感動したことはあるでしょうか?神は栄光で満ちたお方であり、私たちは誉れと賛美をもって神を礼拝します。詩編27篇4節「一つのことを私は主に願った。 それを私は求めている。 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」
私たちが気をつけたいことの一つは、神に対しての感覚が鈍ることです。毎週、同じ時間に教会に来て同じところに座り、同じ賛美歌を歌い、同じことをやり、退屈に感じている方がいらっしゃるかもしれません。過去に持っていた神への愛情とパッションをもう一度取り戻したいと思う方、まだ神の素晴らしさと麗しさをもっと知りたい方、神の美しさを共に学びましょう。そして共に礼拝を捧げましょう。
今日、皆様と学びたい課題は神の御臨在です。三つのポイントです。1)神は私の砦だから恐れない。2)私は神の素晴らしいご臨在の内に留まる。3)主は哀れみ深いお方だから、私は主の御顔を慕い求める。
1)神は私の砦だから恐れない。私が青年のとき、クリスチャンのユースキャンプに参加しました。そこに、高い木の上に張られたロープがありました。ハーネスを着用して、そのロープの上を歩くアクティビティーに挑戦しましたが、怖くて怖くてロープを歩くことができませんでした。ハーネスを着用していたのに、落ちることが怖くて、一歩踏み出すことができませんでした。世の中には私たちが恐れるものがたくさんあります。病気、戦争、差別、孤独、詐欺、盗み、誘拐、中毒、怪我、争い、死、失業、破産。。。リストは永遠に続きます。
しかし、キリスト者はどうでしょうか?キリスト者は恐れる人でしょうか?それとも、恐れない人でしょうか?もちろん恐れない人です。しかし実際に何も恐れないで生きることはとても難しいことです。どうしたら恐れや恐怖という言葉から離れて生きることができるのか。それは詩編27篇1節「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。」主は私の光であり、いのちの砦。私は守られている。だから恐れない、怖がらない。
詩編27篇で、筆者ダビデの状況は、誰が考えても恐れるであろうシチュエーションでした。しかし詩編27篇は大胆に始まります。悪を行う者が襲いかかって来ても、陣営が張られても 、偽りの証人に暴言を吐かれても、私は恐れない。ダビデは誰の事も恐れない、どんな状況であっても恐れない、何が起こっても恐れないと言ってます。
聖書の中で「恐れるな」というフレーズは何度も出て来ます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 」(イザヤ41章10節)「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14章27節) 「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(第二テモテ1章7節)。
言葉で今「私は恐れない」と言うことは簡単です。しかし実行することはなんと難しい事でしょうか。私たちは人間なので、危ない時に自然に恐れで反応することはなかなか止められません。運転中、事故になりそうな時、ビクっとします。自分の子供がいない事に気づく時、焦ります。病気かもしれないと思うと怖いです。しかし、私たちは恐れるライフスタイル、信仰生活を生きるのではなく、キリストにある自信満々なライフスタイル、信仰生活を育むことを選びます。全治全能なる神が共におられるから、神は私の光だから、砦だから、恐れず、大胆に歩むことができる。
恐れずにいる、ということは、何も考えず、注意せずに行動する事ではありません。例えば、今、新型コロナウイルスを恐れない、と言って何もしないのは違います。感染予防のために、十分な予防策を実行する必要はあります。しかし、ウイルスそのものや、病気を必要以上に恐れて送る信仰生活ではなく、イエスは全てを治めておられるお方である事を改めて心に留め、恐れずに進んで行きましょう。
私たちが恐れるのは、病気でしょうか?死でしょうか?失業でしょうか?孤独でしょうか?それが何であれ、ダビデが語った言葉は、誰にでも、どんな状況でも、どんな事にも適用します。神に目を向けましょう。神を信頼しましょう。
2)私は神の素晴らしいご臨在の内に留まる。詩編27篇4節「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」ダビデが主に願った一つのこと。それは、主の家、主の宮、主の幕屋で主と共にいること。ダビデ一番の願いはそれでした。ダビデは何よりも、神と交わりたかったのです。
なぜ、ダビデは主の家に行き、主と向き合いたかったのでしょうか?三つの理由が考えられます。一つ目の理由は「主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」ダビデは主の麗しさをじっくり考えていました。主は良いお方であること。主は美しいお方であること。主は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられること。
二つ目の理由は、主のご臨在は隠れ場だから。主は守る方です。主はかくまう方です。私の子供が転んで怪我をしたら、走ってきて、私に助けを求めます。同じように、私たちも主のもとへ行き、助けを求めます。主は私たちの隠れ場。主のうちに立つと安心と平安で満たされます。
三つ目の理由は、主のご臨在は喜びあふれる場所だから。神のご臨在の中にいるからこそ、ダビデは喜びで溢れて主に歌い ほめ歌を歌うことができます。敵に囲まれていても、喜び、いけにえをささげる。ダビデは心配事があっても、主と向き合い、主のご臨在のうちに立ちます。
ダビデにとって神と向き合うことはたぐいまれな経験でした。ダビデは神と向き合うことができるように心から願っていました。現在、私たちはイエスによる新しい契約、時代の中に生きているので、旧約の時代のように、神のご臨在というものは一つの場所に制限されていません。家の中でも、運転中でも、外でも、買い物中でも、神は私たちと共におられます。
教会に行くのがしんどいと思ったことはあるでしょうか?教会に行って暇をつぶそうと思ったことはあるでしょうか?教会に行くことがマンネリ化して、別に嬉しくてもなく、無関心に思ったことはあるでしょうか?牧師として、私にとって日曜日は体が一番疲れる日です。朝の4時半に起きて、5時半の祈祷会に出ます。そして、三つの礼拝に参加します。英語部の礼拝、日語部の礼拝、そしてまた英語部の礼拝。私が一番気をつけていることは、神と向き合うために教会に来たことを忘れないことです。私たちも主の美しいご臨在を探り求めて、主と向き合うことを大切にしましょう。
3)主は哀れみ深いお方だから、私は主の御顔を慕い求める。あなたがピンチの時、家族、愛している人からの助けを求めますよね。親身になったアドバイスやヘルプを求めます。そして愛する人から長い間離れて会うことができないことは辛いことです。ハワイはミリタリーファミリーが多いですね。ミリタリーでは家族が一年間、二年間、会えないことがあると聞きます。それはとても辛いことです。
ダビデは主に心から願いました、詩編27篇8節〜9節『あなたに代わって 私の心は言います。 「わたしの顔を慕い求めよ」と。 主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか 御顔を私に隠さないでください。 あなたのしもべを 怒って 押しのけないでください。 あなたは私の助けです。 見放さないでください。見捨てないでください。 私の救いの神よ。』主の御顔を求めることは神と親密なコネクション、関係を求めることです。ダビデは敵に囲まれたり、責められたりして、ピンチの状況でした。そして神を強く求めました。あなたの御顔を慕い求めます。あなたの御顔を見せてください!ダビデは神のみ顔を見たくて見たくて仕方がなかったのです。
そして神のみ顔が隠されることを、ダビデはとても嫌がり、どうか隠さないでください、と強く願いました。私を見捨てないでください。見放さないでください。神が離れていないこと、近くにおられることを、ダビデは知りたかったのです。ダビデにとって、神から離れることは、何よりも恐ろしいことでした。だからダビデは、私はあなたの御顔を慕い求めます、と強く語ったのです。
現実では、神がすぐにご自分の御顔を現されない時も、多くあります。神様のご臨在を求めても、すぐに感じられないこともあるでしょう。それでもダビデのように、主を待ち望み、主を信頼し、雄々しくあるために心を強くする。ダビデのように私たちも神の御顔を慕い求めることは大切です。神は麗しいお方、哀れみ深いお方。