日曜メッセージ:見るべき姿も輝きもない No Beauty Or Majesty
聖書箇所:イザヤ53章1節~12節
タイトル:見るべき姿も輝きもない No Beauty Or Majesty
イエスは外見的にどんな人なのか考えたことはあるでしょうか?背が高かったのでしょうか?低かったのでしょうか?ハンサムだったのでしょうか?イエスはイスラエル人だったので、中東アジア系の特徴を持つ顔、体型、肌の色は想像することはできますが、それは以上はわかりません。残念ながら、聖書の中にはイエスの外見については書いてありません。イザヤ53章によると、イエスは「彼には見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもない」と記されています。驚きですね。
今日は「主の美しさ」シリーズの最後のメッセージです。主は美しい方であることを学びました。しかし、美しさというものは単純ではありません。苦しみの中にも美しさがあります。崩壊の中にも美しさがあります。試みの中に美しさがあります。これは一体どういう意味なのでしょうか?外見的にはイエスは見るべき姿も輝きもないお方でしたが、イエスは美しい救い主であります。イエスの持つ美しさは、イエスが痛み、試み、苦しみを経験されたからこそ、育まれたものでもあるのです。
金継ぎ、というものをご存知でしょうか?カケてしまった器の破片をもう一度くっつけて、金粉を振ったりして直す方法です。日本には金継ぎの教室などがあるそうですが、ハワイにもあるのでしょうか。壊れてしまったものを直して、新しい趣を持った器として生まれ変わらせます。神の働きもこれに似たところがあるのではないでしょうか。器は私たち。
僕が言うのもなんですが、生きていると色んなことがあります。辛い経験、試み、悲しみ、人からの拒絶や否定でしょうか。そういうことで私たちの一部が欠けてしまったり、壊れてしまうことがあります。神はその壊れてしまった部分を、もう一度くっつけ、直し、癒してくださいます。私たちは、割れる前の姿に戻ることはできません。しかし、この金継ぎのように、その傷跡から、また新しい美しさも生まれます。そのことを今日皆様と考えたいと思います。
今日の聖書箇所はイザヤ書からです。預言者イザヤは救い主が世に来ることを何百年も前に預言しました。この預言は新約聖書の中でも何度も参照されています。イエスは自分のことに関して、イザヤの預言を参照され、弟子たちはイエスがイザヤの預言を成就したことを記しています。今日の箇所は、イザヤ書の中でもとても有名、よく知られている箇所です。この箇所で、イエスはしもべとして書かれています。今から出てくる「しもべ」とはイエスのことを指します。
三つのポイントです。1)拒絶されたしもべ。2)しもべの苦しみ。3)しもべの勝利。
1)拒絶されたしもべ。イザヤ53章には、イエスはどのように描かれているでしょうか?美しい、ハンサム、立派、頭の良い人とは記されていません。イエスはひこばえのように生え出しました。ひこばえとは、切り株から出た新しい芽のことです。イエスは特に魅力的ではなく、一般の人とあまり違いはなかったでしょう。イエスの職業は大工でしたが、特に金持ちでもなく、高貴な生まれの人でもありませんでした。イエスには見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもなかったのです。
イエスは神であり、天から下ってこられました。そう聞くと、パーフェクトな人生を送ったような印象があるかもしれません。しかし実際は、そうではありませんでした。今日の箇所にあるように、イエスは私たちと同じような悩み、病、苦しみ、試みを経験しながら過ごされたのです。人に否定されたり、裏切られたり、利用されたり。誰でも、人に否定されるのは辛いことです。周りの人々、ユダヤ人、宗教指導者たちはイエスを否定し、イエスは異端者と呼ばれ、人々にバカにされました。
そして、遠い関係の人ならまだしも、イエスは自分に近い関係の人にも否定されました。例えば、イエスが自分の出身地に帰った時も、その町の人々はイエスを否定しました。「この人はただのの大工ではないか。」「私たちがよく知っている、マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。」とイエスが神の子であることを疑いました。そして、自分を裏切ったユダ、12人の弟子の一人、にも否定されました。イザヤ53章3節「イエスは蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。 人が顔を背けるほど蔑まれ、 私たちも彼を尊ばなかった。」
しかし、イエスは人に拒絶されても気にしませんでした。イエスが世に来られた理由、天から下った理由は、自分の思いを行うためではなく、彼を遣わされた方である父なる神の御心を行うためであり、これはイエスにとって妥協することができませんでした。イエスの働きの目的は、人に評価されること、人に好かれることではなく、神の子を見て信じる者に、永遠のいのちを授けることでした。イエスご自身が救い主であり神の子であること、そして神ご自身であることを人々に伝えることだけにフォーカスされていたのです。
現代でも、イエスを疑い、拒否する人たちがいます。イエスは頭がおかしいと言う人。イエスはただの詐欺師だったと言う人。他には、イエスは道徳を教えたただの先生という考え方もあります。皆様はどう思われるでしょうか?
2)しもべの苦しみ。イエスの人生には苦しみがたくさんありました。人に拒絶される苦しみだけでなく、それ以上に、イエスは苦痛を経験されました。何度も聞いたことがある話かもしれませんが、イエスの最期の苦しみと死は想像さえできません。
イエスの苦しみは逮捕された時から始まりました。看守にはむちでたたかれ、殴られました。ローマ帝国では罰としてむちでたたく慣習がありました。罰は40回のむち打ちでした。イエスは39回もむち打ちされたと考えられています。なぜか最後の一回は控えるという慣習があったそうです。一回、二回、三回、四回、イエスはむちで打たれました。その痛みや苦しみがどれほどのものであったのか、想像できませんね。そして、イエスは頭にいばらの冠をかぶせられました。残念ながら、イエスの苦しみはそこで終わりませんでした。
孤立無援の中でイエスは自分が掛けられる十字架をカルバリ(イエスが処刑された丘)まで背負って運びました。カルバリまでの道は今でも「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれ、1.6キロメートルほどの距離をイエスは重い十字架を背負って歩きました。十字架を背負って歩くことは屈辱そのものでした。
十字架刑は、最もひどい拷問と苦痛を伴う死刑の方法でした。 囚人は木の十字架に括り付けられるか、くぎで打ち付けられるかして死ぬまでそこに付けられます。 死ぬまでに恐ろしく時間がかかり、非常に苦痛な死に方で、イエスはまず十字架の上に寝かせられ、それから起き上がらされ、固定されました。そして、はりつけにされる時、衣服を脱がされ、十字架に架けられた状態で放って置かれました。そして、何時間かが過ぎ、イエスは最後の息を吐かれました。恐ろしい死に方ですね。その苦しみはどれほどでしょうか。肉体的な苦しみだけではありません。十字架の死は屈辱的であったし、イエスは孤独だったでしょう。イザヤ53章7節。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。 だが、口を開かない。 屠り場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。」イエスはすべての苦しみと拒絶を口を開けず、耐えられました。
十字架はキリスト教を象徴しますね。十字架は死刑の道具で、この意味は死です。しかし、なぜ、人はこの死刑の道具を、ジュエリーとして身につけたり、家に飾ったり、tatooで入れたりするのでしょうか?それは、十字架は死を象徴しますが、同時に神の愛と恵みを表しているからです。死刑の道具が神の美しい愛を表すようになった。これが十字架の美しさです。
3)しもべの勝利。十字架は勝利を象徴します。そして神の愛と恵みを象徴します。イエスは自ら十字架にかけられ、亡くなられました。十字架の死はすべて神のご計画で、前から備えられていたことでした。イザヤの預言がその証拠です。十字架の死は無意味ではありません。十字架の死は神の御心により行われました。十字架の死は救いのみわざ です。だから、恐れるべきである十字架を美しく思うことができるのです。神の力により、死を象徴する十字架をいのちにされました。痛みを象徴するものを癒しにされました。悲しみを象徴するものを喜びにされました。敗北を象徴するものを勝利にされました。
イエスはなぜご自分の体を捧げられたのでしょうか?命を与えるために。許しを与えるために。喜びを与えるために。平安を与えるために。勝利を与えるために。私たちは罪人で、神のみ前では有罪です。誰一人として罪を持っていない人はいません。私たちは罪の罰を受けるべきでした。しかし、イエスは私たちと神の間に立ってくださり、私たちが受けるべき罰を替わりに受けてくださいました。イエスはあなたのために罰せられ、むちに打たれ、十字架にかけられ、苦しめられました。イザヤ53章4節「まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みを担った。 それなのに、私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イエスが経験された懲らしめが私たちにもたらしたもの。それは平安、癒し、許しです。
そして、イエスは誰のために十字架にかけられたのでしょうか?私たち、です。あなたのためです。イザヤ53章5節「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イエスを信じるものはすべて、許され、癒され、平安で満たされます。
最後に金継ぎの話に戻りたいと思います。十字架というものは恐れるべきものです。しかし、神はご自分の御心により、十字架というもの自体を新しくされました。今、十字架というものは美しいものです。あなたの人生の中で、壊れているもの、かけているものはあるでしょうか?あなたは壊れている器かもしれません。あなたは辛い経験、試み、悲しみを今、経験されているかもしれません。もしかしたら、神から離れている気がしているかもしれません。もう一度、神とリアルな深い関係を持ちたいと思っているかもしれません。今、初めてイエスのことを信じたいと思っている方もいらっしゃるかもしれません。
神は陶器を作るお方です。同じイザヤ書の64章8節です。「主よ、あなたは私たちの父です。 私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。 私たちはみな、あなたの御手のわざです。」壊れている部分があったら、神にそれを治してくださるように、祈りましょう。神は金継ぎのように、その壊れている部分、欠けている部分をもう一度くっつけ、直し、癒してくださいます。そして、あなたをより美しく作り直してくださるのです。