日曜メッセージ:「私は世の光」(I Am The Light Of The World)

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箇所:ヨハネの福音書8章12節〜20節 (John 8:12-20)

テーマ:「私は世の光」(I Am The Light Of The World)

皆様、おはようございます。お元気でいらっしゃいますでしょうか?

ハワイの灯台と言えば、マカプウでしょうか?ダイヤモンドヘッドにも一つあるそうですね。灯台は通常、岬の先端や港湾内に設置されるものです。その外観や光により船舶の目標となります。灯台の色がいつも同じなことに気づいた方はいらっしゃるでしょうか?多くの場合、灯台は白、または白と赤のしま模様です。これは明るい時でも、船舶から灯台が見えやすいように、背景とコントラストをつけるためだそうです。

灯台の光は、大きな海の中で船の道しるべとなり、導く。それはまるで、イエスが私たちにとっての光であることと同じです。イエスは語られました「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8章12節)今日のメッセージはヨハネの福音書8章12節〜20節を分かち合いたいと思います。ヨハネの福音書の「私は」宣言のメッセージシリーズを引き続き進めたいと思います。イエスが語られる2つ目の「私は」宣言。それは「私は世の光」です。

イエスの「私は」宣言に、当時の人々はどのように反応したのでしょうか?ある人は「ふ〜ん」と言ったでしょう。よくわからないからスルーした人もいたと思います。ある人は「また奇跡を起こしてくれるかな?」と期待したでしょう。「イエスは異端者だ」と非難した人もいたでしょう。このような反応を持っていた人のことが、本日の箇所の中で描かれています。彼らはイエスを注意深く観察していた宗教指導者たちでした。彼らはイエスをひどく嫌い、イエスがご自分のことを「私は世の光」と語られた時、非難しました。

では私たちはどのようにイエスの「私は」宣言に反応したら良いのでしょうか?無関心?奇跡を求める?批判する?イエスの「私は」宣言はただの言葉ではありません。この「私は」宣言は、イエスが神の御子であること、油が注がれた人であること、世の救い主であることを示しています。私たちは群衆としてではなく、宗教指導者としてではなく、イエスの教えに従い、イエスの後をついて行く弟子として「私は」宣言をしっかりと心に留めましょう。

イエスが世の光であることはどう言う意味なのでしょうか?二つのポイントです。一つ目:世の光であるイエスは真理を表す。二つ目:世の光のイエスはあなたを見守る。

一つ目のポイントです。世の光であるイエスは真理を表す。聖書を読むと、光と闇が二元的に描かれています。光と闇は異なるものです。二つは対立しています。しかし、ここで一つ大切なポイントがあります。これはよく物語や映画で見る、闇と光の対立ではありません。なぜなら光の勝利は既に定められているからです。光は暗い世の中に輝き、悪の終結は既に決まっています。

ヨハネの福音書の1章に書かれているとおり、イエスは命であり、光です。イエスの顕現により光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。イエスはすべての人を照らすまことの光であります。光は真理、命、栄光を象徴します。イエスによって恵みとまことが実現されました。イエスはいのちの光。

私たちの世界は現在、暗闇に覆われています。新型コロナウイルスの影響で世界は混乱に陥っています。不景気、解雇、隔離など、困難は言い尽くせません。人々は苦しみ、悲しみ、孤独感で溢れています。しかし、この闇の中に照らされる光。それがイエスキリストの光なのです。イエスにある恵みとまことは世の中に輝いている。それは旧約聖書の中で、イザヤが預言したことです。「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。 死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く。」(イザヤ書9章2節)

イエスが誕生した時、博士たちが空に輝く星を見てベツレヘムへ行き、赤ちゃんであったイエスを礼拝したように、今、この時にこそ私たちはまことの光であるイエスを求めて、心から礼拝しましょう。

ニュースを見ても新聞を読んでも、ウイルスによる感染者数、死者数は増えていくばかり、家族や友人とも自由に会うこともできず、来月、どうして生活したら良いのか、私たちは絶望に覆われています。しかし、イエスは今あなた語りかけています。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

この試練の時こそ、私たちはイエスを求め、イエスに従い、イエスの内に留まる必要があります。私たちは毎日家にいますけれども、イエスが私たちの家庭の中心になりますように。私たちの家は暗いところではなく、イエスの栄光と光を表す場所です。あなたの家はイエスが希望であることを表すでしょうか?それとも、あなたの家は闇で覆われているでしょうか?明るい心、そして明るい家を築きましょう。

二つ目のポイントです。世の光のイエスはあなたを見守る。子供の頃夏休みには神戸の暑い夏を避けて家族と一緒に長野県に行き、野尻湖のキャビンをレンタルし、何週間か過ごしました。私は都市育ちなので、森の中の生活に慣れるまで少し時間がかかります。一つ慣れないといけないことは森の夜です。都市では夜の道は街灯で照らされて安心です。しかし、夜の森には街灯はありません。フラッシュライトだけです。私は両手にフラッシュライトを一本ずつ握り、森の曲がりくねった道を恐る恐る歩くのです。

夜の森で気をつけないといけないことは二つあります。一つは崖、もう一つはクモです。長野県の森にいるクモはとても大きいです。ハワイでは今のところあまり巨大なクモを見ませんが、山に行けばいるかもしれませんね。長野で見たクモは大きく、手の平ぐらいあります。そしてなぜか夜になるとたくさんのクモたちが出てきます。そして、大きなクモの巣をつくります。私は崖から落ちないように足元を照らしながら、同時に、蜘蛛の巣に引っかからないように、前を照らしながら歩かないといけません。光を上下、上下と繰り返し動かして、注意深く歩きます。暗闇を歩いて初めて、光に導かれることが私たちにいかに必要かを思い知らされます。

光は導く。光を見守る。光は道を照らす。「光」は旧約聖書の中でもとても大切なモチーフです。出エジプト記の中で、イスラエルはエジプトの圧制から救われた後、彼らは未知の土地に出ました。彼らは約束の地を目指していましたが、それは長い旅でした。先のことは全くわかりません。子供からご年配の方まで、荷物を担いで、旅をしたのです。しかし、主はイスラエルの人々を見捨てませんでした。イスラエルが荒野に出てから、神は彼らのことをしっかりと導き、見守りました。

出エジプト記13章21節です。「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。」主はイスラエルを導くため、昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中にいて、民の前を進まれました。現在も同じように、イエスは私たちの前を進まれ、私たちの道を照らしてくださいます。

光の効果。それは、私たちを導き、正しい道、義の道に歩ませる。崖から落ちないように、躓いて転ばないように、迷わないように、顔がクモの巣に掛からないように、光は私たちの道を照らしてくださいます。もっと具体的に言うと、光は御言葉です。詩篇119篇105節です。「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」御言葉である光と聖霊の働きにより、神は私たちに正しい道、義の道を歩ませます。

最後に、イエスが世の光であるように、私たちも「世の光」になりなさいと命じられています。何週間か前、朝早くにマルカイにお米を買いに行きました。このような時期ですから、車を停めるまで15分も待ちました。私は少し急いでたので、ショッピングカートを忘れ、重い米袋を持ち、レジの長い列に並んで待っていました。すると、前の方が優しく私に尋ねました。「お米、重そうだね。私のカートに乗せませんか?」私はびっくりしました。思いやりのある人だな〜と思いました。このような不安で余裕がない時期に、知らない人に優しく話し掛けることができるのは素晴らしいことです。

私たちはキリスト者として、このような不安な時期に「世の光」として行動しているでしょうか?自分のことしか考えずに行動していないでしょうか?私たちは、このような時こそ人に優しく、神の愛と恵み、そしてまことを表す召命が与えられています。

皆様、お体を大切に。それぞれの場所で光の民として神の光を世の中に照らしましょう!

在主。